このブログでは連日のように、「本を読め」「新聞を読め」と連呼しています。私は個人的に東京新聞が気に入っていて、朝刊だけでなく夕刊も毎日とても楽しみにして読んでいます。もちろん、子どもも読んでいますし、もう何年も、大事だと思う記事の切り抜きを続けています。
今日は、東京新聞の記事をいくつか取り上げてご紹介したいと思います。(まあ、素朴に私好みの記事を紹介したいだけなんですけどね。)
まずは、2016/9/3に掲載された森田真生氏の「数学のなかの人生(上)」という記事をご紹介します。読みにくいかと思いますので、後半部分をそのまま抜粋します。尚、私の独自の判断で色を変えたり、下線をつけております。
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(以下抜粋)
「人間の知的能力のうち、計算機にいまのところまったく欠けているのは、他と共感する能力である。人の悲しみを前にして、自分もすっかり悲しくなること。喜ぶ人を前にして、まるで自分のことのように嬉しくなること。こうした能力は、囲碁が打てたり、積分をできたりするよりもはるかに基本的な人間の知能だ。
数学は、計算だけでは成り立たない。単に正しい答えを見つけるだけでなく、その答えの意味するところを「わかる」ことを目指すからだ。では「わかる」とはどういうことか。それは、煎じ詰めれば、わかりたい対象に共感し、心を通わせ合うということではないだろうか。
計算のような正確な思考こそ数学の美徳だというのがデカルトの考えだったが、およそ日常とはかけ離れた対象にまで心寄せていく開かれた想像力もまた数学の美点だ。
数学と人生の関係について漠然とした疑問を抱えていた私はいまでは、数学が、よく考え、よく生きようとする営みそのものだと感じている。数学はいつしか、すっかり人生の一部になってしまった。」
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これに関連して、次は本日(2016/9/4)の書籍紹介の記事。
『人びとの戦後経済秘史』(東京新聞・中日新聞経済部編)についてジャーナリストの池上彰氏が書かれた書評からです。
(以下抜粋)
「多くの若者は、歴史を暗記科目だと誤解しています。(中略)
その若者たちにとって、水俣病や四日市の大気汚染など高度経済成長期に発生した日本の公害問題は、約五十年前の出来事。完全に歴史上の出来事です。
しかし、もしあなたが、そのとき、チッソ水俣工場で働いていたら…四日市工場で働いていたら…。
あなたは何ができたでしょうか。」
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最後は、私が毎週楽しみにしている山口二郎先生のコラムです。これは画像も読みやすいと思いますので、是非本文をお読みください。
(以下抜粋)
「日本では無責任や虚偽が当たり前になり、疑うことや憤ることを続けるのに飽きてくる。しかし、おかしいと思わないことは、自分も虚偽に加担することを意味する。」
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森田氏の「『わかる』とは煎じ詰めれば、わかりたい対象に共感し、心を通わせるということ」という言葉と、池上氏の言葉「もしあなたが、そのとき、チッソ工場で働いていたら、四日市工場で働いていたら、あなたは何ができたでしょうか。」という言葉、そして、山口二郎氏の、「おかしいと思わないことは、自分も虚偽に加担することを意味する」という言葉。見事にリンクしているように思います。
つまり、五十年も前に起きた問題、直接自分には全く関係がない(ように思える)出来事に対して、「わかりたいと心を通わせる努力をするか否か」で、その出来事に対する理解の深さは全く違ってきます。わかりたいと心を通わせる努力をしなければ、それは単に、試験で点を取るための暗記項目の一つでしかありません。そういう意識で勉強する人にとっては、本当に苦痛で退屈なだけの‟作業”となってしまうでしょう。
また、「わかりたい対象に心を通わせようとしない」場合は、「これはおかしいのではないか」という疑問も憤りも湧かないわけです。かくして、世の中の不条理だとか力を持つ者の不正・横暴といったものにも非常に鈍感な群衆が育っていくのでしょう。これが、「教育の成果・結果」だとしたらあまりに情けない限りですね。
勉強する最終着地点は、「わかりたい対象ー喜んでいる人、悲しんでいる人、苦しんでいる人、怒っている人ーに近づき、共感し、心を通わせあうこと」となるべきでしょう。
その対象は、身近な存在には限りません。時間と空間を超えて、遠く離れた存在について、わかろうとする気持ちを持つことが大切だと思いますし、それが出来るようになったとき始めて、勉強すること、学ぶこと、学問することの意味と楽しさが本当に理解できるようになるのではないでしょうか。それが出来ないうちは偽物、と私は思っています。