再三書いてきていることですが、何度でも書く必要があると思っていますので、いろいろな角度から同じことを訴えていきましょう。
我々は生徒の皆さんに英語を教えていて、時々不思議な感覚に襲われます。私たちは一体何を教えているのだろうか?と再確認したくなるような感覚。英語を教えているはずなのに、いつの間にか日本語の使い方だとか、一般常識的なことを教えていることがよくあるのです。
これが何を意味しているのか、といいますと、やはり、今の若者の言語(日本語)能力や教養力が総じて低いということではないでしょうか。本人の母語能力以上に外国語(英語)能力が高まるということはあり得ませんから、自分の英語能力は日本語能力に比例するのだとお考えください。
昨今は、お子さんが小さいうちから英語英語と、英語を熱心に習わせる親御さんが相当数いるようですが、それはお子さんの首を親自らが絞めているようなものだと、私たちは考えています。英語ができれば世界を理解できるわけではありません。英語ができるだけでは何者にもなれません。(なる必要もないわけですが。)また、母語能力以上の外国語能力が獲得できるはずもないのですから、英語ばかり熱心に勉強させたからといって、それが他を圧倒するような特別な力となり得る可能性は限りなく小さいのです。
むしろ、根幹となる部分をしっかりと耕されていたお子さんは、英語しかできない薄っぺらい学力など、時期が来ればあっという間に追い抜いてしまいます。子どものうちは「英語など勉強する暇があったら、本を読みなさい」ということです。(この「本」という文字が実は曲者ですが・・・つまり子供用ラノベではちょっとどうかなあ…。また書きましょう。)
我々が母語とする日本語能力というものがいかように大切であるか。是非とも以下の文章をまずはお読みいただき、一人でも多くの親御さんがお子さんに真の知性の萌芽を育んでくださいますことを、切に願います。
2017年、2月6日付東京新聞夕刊の記事より、京都大学名誉教授佐伯啓思氏の文章です。
わたしの判断で、大事な部分を抜粋してご紹介します。(前半部分割愛。できれば本文をお読みいただきたい。)
ネットは簡便
「言葉」というものに対してもつ関心や意味が近年、大きく変わってきていることは事実であろう。確かに、ITの進展とともに、チャットやツイッターや無料通信アプリLINE(ライン)で交わされる言葉は、読解力や表現力どころか、好き、嫌い、いいね、けしからんね、といったたぐいのあまりに端的であけすけな単語の組み合わせ、といった傾向に流れる。また、いかなる情報でも、ネットによって簡便に入手できるため、ほとんど読解力などいらなくなっている。
情報化の進展それ自体に是も非もないにしても、結果として、多少なりとも複雑で含みをもった長文の読み書きが回避されるようになるとすれば、そこには大いに問題があろう。読解力とは、言葉を通して他人の心を理解し解釈する力だからである。
だからまた、それは表現力ともかかわるし、さらにいえば、社会的なコミュニケーションの力ともかかわる。なぜなら表現力とは、どのように言えば他人が理解してくれるか、という解釈を前提にするからであり、社会性の力は、他人の言いたいことを理解しおのれの言いたいことを伝える力そのものだからだ。読解力が大事なのは、「国語」の点数をあげるからではなく、それが人間の社会性の基礎であり、文化の基礎だからである。
ということは、読解力の低下は、社会性の能力、つまりコミュニケーション能力の低下を意味するだろうし、さらにいえば、文化の質の変容を示しているだろう。
(中略)
「生」を豊かに
さらにいえば、政治の質も、政治家の質も、もとをただせば、読解力や表現力に基礎をおいている。(中略)まずは大事な一冊の本を見つけ、一人の大事な人との会話を楽しみ(時には苦しみ)、そこからおのれを見いだすというしごく当然の習慣を身につける方が、はるかに「生」を豊かにすることは間違いないであろう。(抜粋終わり)
日々中高生に(英語を)教えていると、多くの子どもたちが「勉強とは、日常とは別の特別な世界について(ぼんやりと)知ること」と勘違いしているのではないか、と感じることが多いです。あるいは、学校で上位の成績をとるため、受験で合格するために必要なこと、と受けとめているだけ、のような気もします。
しかし、そういう意識で勉強しただけの学力というのは、私どもからすれば、風が吹けば簡単に吹き飛んでしまうような、塵のようなものです。(言い過ぎかしら…汗)
前回のブログで、私どもの理念として「アンチ・ガリ勉主義」ということを掲げました。これは別の言い方をしますと「教養主義」ということでもあります。
即ち、テストのため、受験のために勉強をするのではなく(それは単なる通過点)、本や新聞等をどんどん読み、教養を身に着けることを主眼にしてほしいということを意味します。同時に、「現実の世界にずっしりと身体を浸からせて生き、感じ、考え、知性を獲得せよ」という願いでもあります。
「現実の世界に身体を浸からせる」とはどういうことでしょうか?
例えば、身の回りに日々起こっている問題に、意識的・主体的であれということです。もちろん学校の友達や家族、という範囲もありますが、もう少し広い視野をとって、現実の社会にある(あった)様々な問題に意識を向け、リアルに自分に引き寄せて考えよということです。
その為には当然、新聞を読んだりニュースを聞く、本を読むといったことがまずは、習慣化されていなければなりません。(もちろん、これは最低限の必要条件でしかありません。)
残念ながら、昨今こういったことを積極的に実践なさっているお子さんに出会う機会は、なかなかないのが現状ですが、新聞の紙面にて、そういったお子さんに出会うことができましたので、ご紹介しましょう。
2017年1月26日付の東京新聞「発言」欄に寄せられた読者の投稿です。
このお子さんには既に「知性の萌芽」があります。それが、
「この国は被ばく国で核の怖さをよく知っているのに、どうして核兵器廃絶に賛成しないの?」「なんで借金膨らませてまでオリンピックやるの?借金で困るのオレたちだよね」「原発、なんで動かすの?核のゴミを残して死ぬくせに」
という言葉(疑問・怒り)によく表れています。身の回りの事件、事故、問題を自分のこととしてリアルに受け止め、自分の意見をしっかりと持つことができている。これは、単に教科書や問題集を、せっせと勉強して得られるような力ではありません。また、一朝一夕に養われたものでもないでしょう。
日々の習慣、ご家族が(自然と)作り上げている環境がこの子を「この子」にした、つまり「知性を育んだ」のだと思います。
学校の成績や偏差値ばかりを追い求めても、それだけでは「教養ある人」「知性ある人」にはなれないのです。このお子さんのように、社会や世界にある問題を、自分のこととしてリアルに受け止め、自分の意見を持つ、それこそが「真の知性」だと私たちは考えますし、こういうお子さんを「優秀な子」と呼ぶのです。
本当は当塾からもそういった「真の知性」を生み出したいのだと、本音をここに暴露しておきます。
ここからは余談です。この12歳の彼に、そして、同じように社会に対して疑問を抱いているお子さん達へ
同じく東京新聞の記事からです。アメリカトランプ新大統領に対する抗議デモに参加した8歳の少女が紹介されています。
更にもう一つ。以下は今のところ日本のオトナタチが出している答えの一つです。(東京新聞より)
内容を一部要約、抜粋してご紹介しましょう。
今春、福島原発事故で避難していた人々に対して、避難指示の解除が行われます。福島第一原発では、1~3号機から使用済み核燃料を取り出す計画が大幅に遅れ、廃炉作業の見通しも立っていない状況のようです。そんな中、住民の帰還だけが「予定通り」に進められている、とのことです。その説明会での様子が報告されています。
(以下抜粋)
兼業農家の女性からは、農業用水に使っていた大柿ダムの底の汚泥の汚染度を問う場面も。国側はダムの水を使った作物の実験結果でも安全を確認していると強調する一方、「汚泥は一キロ当たり20万ベクレル前後になる」と説明。会場からは「そんな危険なところに子どもを帰せというのか」と怒りの声があがった。馬場町長に「同じ被害者なんですから」と国目線に立たないでほしいと訴える町民も。
津波被害にあった請戸地区の紺野広光さん(72)は「生まれ育ち、老後の準備をしていた家がすべて流された。原発は国策で事故は人為によるもの。なのに今回の原発事故では誰も責任を取っていない。事故の責任をはっきりさせない限り、同じことが繰り返されかねない」と訴えた。(抜粋終わり)
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