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2017/05/25

東大・早稲田・慶應 一流大学の英語を読みきる力

何度も書きますが英語の勉強も順調に進んでいくと、最終的には英文を読んでいくという勉強を重ねていきます。親御様の多くも経験していることのはずですが、自分が中高生時代にどんな内容の話を英文で読んでいたかなんて、記憶にある方の方が珍しいのではないでしょうか。それはなぜか?恐らくですが、多くの人がやっつけ仕事でしか英文を読んでいない、内容を吟味したり自分の身に置き換えたりしながら、立体的にその英文を立ち上げて読むということをしていなかったからだろうと想像しています。

 

実は、過去の上智大学の英語の試験問題に、英語教科書プログレスに掲載されている英文=話題がそのまま出ていたことがあります。「え??まんまじゃん!」と私は驚いたのですが、プログレスでその話を確実に読んでいたはずの私の教え子は、その話を全く覚えていなかったという事実があります(笑)。まあ、多くの人がそういうものなのかな、と思っています。文章=言葉が表現している‟世界”に興味がないということなんでしょうね。

 

例えば私自身は生徒の皆さんと英文を読み進めている時、苦行の時もあるのですが(笑)、実は結構楽しいなと思う面ももちろんあるのです。それは、英語を通して様々なストーリーや世界観、思想に触れることが出来るからです。つまり、何を読んでも何度同じ話を読んでも、「読むこと自体が楽しい」のです。生徒の皆さんも私どものような塾に通いながら、こういう境地になれたらもう、鬼に金棒!なんですけどね…。

 

手前味噌でお恥ずかしいですが、私が今でも文章を読むことを楽しめているのは、中学時代の読書活動に大きな原点があるような気がします。そんな経験を今日は書いてみようと思います。

 

私が本を自分で読むようになったのは、小学校入学の頃からだったと記憶しています。恐らく担任の先生に図書室に連れていかれ、「みなさ~ん、しっかり本を借りて読みましょうー」なーんて言われたことが始まりだったのだろうと思いますが、かといって何を読んでよいのかわからず、伝記シリーズをしばらく読み進めていたように記憶しています。特に『野口英世』という人の生涯は、小さな私にとってとてもインパクトのあるものでした。なんか、頑張って生きなきゃいけない、と子ども心に思った記憶があります。その後、『世界名作シリーズ』みたいなのを続けて読んでいたように思います、定番ですけど、ビクトル・ユーゴーの『ああ無情』とか、ね。

 

一方、家の本棚にある大人が読む本の背表紙をいつも無意識に目にしていたところから、ある日『自伝 田中角栄』という題名に興味を惹かれ読んだ記憶もあります。当時、ニュースを漠然と見ていてなんとなく子ども心にも、「田中角栄はワルイ人」というイメージを持っていたのですが、その本を読むと田中角栄という人が非常にヨイ人に描かれていて「え?どういうこと??」と戸惑ったことを今でもはっきりと覚えています。「自伝」ということの意味を知らなかったり、物事や人を判断する目がとても直線的で単純なおバカさんだったんですね(笑)

 

中学に入った時に、新任の国語の先生(女性)が、クラスの全員に日記を書くという課題を出され、文章を書くことが比較的好きだった私は、クラスの誰よりも熱心にほとんど毎日日記を書いて先生に提出していました。毎日やり取りをする中で、先生がいろいろな本を勧めてくださり、勧められるままにどんどん読んでいきました。

 

なかでも、太宰治の世界観には幸か不幸かボッチャーンと浸かってしまいました。『グッドバイ』『人間失格』『晩年』『斜陽』etc…新潮文庫でほとんどの作品を買い集めて読み漁りましたが、なんだか生きていくのがかったるいような、退廃的な感じになっていく自分を感じながら、一方でそういう自分を楽しんでいる、おませな中学生でした。それから、夏目漱石、三島由紀夫、水上勉、中原中也、etc…。三島由紀夫は当時あんまりよくわからなかったような記憶もありますが、とにかく三島由紀夫のあの格調高い文体の世界に浸るだけでとても満たされました。あとは、倉田百三の『親鸞』『出家とその弟子』なんかも読んだなあ。あ、そうそう、中勘助の『銀の匙』とか。

 

海外もので読んで今でも強く印象に残っているのは、ジュール・ルナールの『にんじん』、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』。

 

当時読んでいた文庫本の多くが古ぼけた姿で今でも私の書棚に鎮座しています。

 

残念ながら、当時学校の図書室に例の先生が入れてくださった本で、今手元にはないのですが、私の記憶にはっきりと刻まれている本が2冊あります。

 

1冊目は、岡真史著『ぼくは12歳』。これは、中学1年生の夏休み直前に自ら命を絶った少年、岡真史君が残した詩や手記をご両親がまとめた本です。手元に本はなくても私の心にしっかりと刻まれている言葉(詩)があります。それは確か、「ぼくは死なない」というタイトルの詩だったような気がするのですが、

 

ぼくは 死なない

ぼくは ぜったいに死なない

なぜなら ぼくは ぼく自身だから

 

という一遍です。この言葉を残して彼は大空に飛び立った。この詩の意味。一体どういう心境で書いたのだろうか、どういう意味なのだろうか、いまだにわかりません。これから僕は大空に舞うけれど、肉体は死んでもぼく自身が本当に死ぬことはないのだ、という意味なんだろうか、それとも、物理的に、本当に「僕は死なない」という意志の表明だったんだろうか?仮に意志の表明であるとするならば、今にも闇の中に吸い込まれてしまいそうな自分を感じながら必死でそれに抵抗している言葉なのか、それとも、もっとシンプルに、本当に、自分は絶対に死なない、頑張るんだ、生きてゆくんだ!という前向きな意志表明だったんだろうか?

 

もう一冊は、この岡真史君の御父上である高史明(コ・サミョン)氏が書かれた『生きることの意味』という本―在日朝鮮人として生まれた作者の自叙伝―です。

確か本の最後にあった言葉だと記憶しているのですが、

 

「私の生きることの意味の探究は人の優しさを探究することであった。」

 

といったような一節。この短い一節を読んだ瞬間に、たまらなく哀しくて淋しい気持ちになったことをよく覚えています。この短い一文に、著者の過酷な日々と淋しさ、辛さが凝縮しているような気がしました。絶望せず、必死にもがきながら生きた人の、真実の言葉だということがわかります。いまも、ものすごく突き刺さっています。

 

おっと、話がウェットになってきましたね。皆さんが好みそうな現実的な話に戻しましょう(笑)。中学生の頃から、日常的に純文学を中心に読んでいた私にとって現代国語の‟勉強”というのは中高を通してほとんど不要でした。この言葉の意味することはどういうことだろう?とか、なんでこの人はこんなことを言うのだろう?と毎日のようにいろいろと考えながら読んでいるわけですから、試験でどんな文章が出てきても、精神的に全く動じることはなかったような記憶があります。国語を‟勉強する”、ということに強い違和感を感じてもいました。

 

もちろん、そうなることを目的として本を読んでいたわけではなく、結果としてそうなっていた、というところがポイントかなと思います。また、本をよく読んでいるからといってそれが必ずしも国語の成績に直結するとは限らないという現実も、人によってはあるようです。ただ、英語を教える立場から言えば、やはり(エンタメ小説やラノベではない)読書を楽しめるくらいの人でないと、一流大学の膨大な量の英語を読みきるのはなかなかきついだろう、ということは言えます。

 

 

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2017/05/03

なぜペラペラ話せないのか?

先日私どものブログで、新聞に出ていた「プレジデント」という雑誌の広告文句「中学英語でペラペラ話す」についての話題を書きました。

 

 

確かに、「中学英語で簡単な英会話ならできる、海外旅行に行っても困らない程度の英語力なら中学英語で充分可能だ」と私どもは書きました。また、一流大学を卒業した一流企業のサラリーマンでも実は大した英語力はないのだ、ということも書きました。

 

 

実際、私たちの知り合いにもメーカーや商社にお勤めの方で、海外との取引を頻繁になさっている方々がいらっしゃいますが、英語には苦労なさっているようです。ある人は、TOEICの点数は800点を超えているのに、海外取引先とのテレビ会議では貝になっているとか、また別のある人は、商品の説明を英語でしなければならず、書けばそれなりに書けるけど、口頭で説明するとなるとなかなか英語が口から出てこない、といった悩みをかかえていらっしゃいます。

 

 

中学英語をしっかりとマスターしさえすれば簡単な英会話くらいできるのであれば、どうして一流大学を出た人々ですらこんなに英語で苦労しているのでしょうか?

 

 

一つには、以前のブログにも書きましたように、日本人全体の英語のレベルが低いので、ある程度高い潜在力(日本語能力や国語力、あるいは数学力)のある人なら1-3年集中して勉強すれば有名・一流大学に合格できてしまうという現状があります。

 

 

もちろんレベルの低さだけの問題ではありません。英語学習の方法や環境にも問題があるのです。受験英語をいくらやっても英語が話せるわけではないという俗説があります。半ば正しいですが、半ば間違っています。というのも、従来の集団式授業―学校や予備校の授業―では、確かにいくら受験で合格する力はついても、英語を発話する力はつかないからです。何しろ、大方の時間は黙って説明を聞くか考える、あるいは黙ってノートに何かを書いているだけなのですから。しかし、たとえ受験英語(大学入試のための英語)を学ぶにしても、私どもシリウス英語個別指導塾式に学ぶならば、英語を話す土台が確実に完成するらです。 

 

 

 

ところで、皆さんは次のような俗説を聞いたことがありませんか。

 

*日本人は読み書きは得意だが、話したり聞いたりするのは苦手だ。

*日本人は文法ばかり勉強しているから、英語を話せるようにならないのだ。

*日本人は、いちいち頭の中で英作文をしているから、なかなか英語が口から出てこないのだ。

 

これらの俗説は、全て完全なる大間違いです。こういう俗説を信じていては、いつまでたっても英語を話せる人にはなれません。むしろ、この俗説の正反対のやり方を選択しなくてはならない。

 

 

 

まず、日本人は読み書きが得意だというのは、いったいどこから生まれた考えなんでしょうね。だって、ほとんどの日本人は、英語をほとんど全く書けないのですから。大学入試でも、ほとんどの大学では、本格的な英作文の試験は課されていないのです。また、たしかに慶應大学(経済学部)や東京外国語大学では、簡単な英作文というか英語ライティングの試験がありますが、英作文が0点で合格した人も少なくないと聞きます。つまり、日本人は英語をまともに書けないというのが現状なのです。

 

 

では、もし仮に英作文が得意であったら、どうでしょうか。まだまだ世間ではあまり認知されていませんが、実は、英語をすらすら書ける人は、英語を話せる人、あるいはもう少しでぺらぺら話せる人なのです話せる人は書ける人、書ける人は話せる人なんですね。初・中級段階では、「話す」と「書く」も、ほとんど区別できない能力なのです。つまり、日本人が英語を話せないのは、英語を書けないということでもあるのです。

 

 

ではどうやったら英語を書けるようになるのでしょうか? 先ほど挙げた、英文法ばかり勉強するから英語を話せる(書ける)ようにならない?んなバカな、むしろ、英文法を大いに駆使しなければならないのです。和文を英語に訳す訓練も欠かせませんね。日本人が英語を話したり書いたりするようになるためには、まずは文法学習と和文英訳をしっかりとマスターすることです

 

 

しかし、なんとなく納得いかないなと感じる方もいることでしょう。というのは、英語を書くことはなんとか出来るけれど、話すのは苦手だという人が沢山いるからです。そう、実はそこがポイントなのです。

 

 

英語を書けるが話せないという人は、どんな人でしょうか。実は、英語を書けるといっても、とてつもなく書くのが遅い人なのです。簡単な一文を書くのにも、しばらく考えたり、辞書を引き引きしたりして、恐ろしく時間をかけなければならないのです。

 

 

分かりますか? 英語を書くのが「遅い」とか「時間がかかる」というのは、英会話的に「話す観点」からすると、致命的なことなのです。一言を発するのに、辞書を引き引き5分かかるとしたら、会話的コミュニケーションは到底成り立ちません。大甘の英検の面接試験だって不合格です(笑)。つまり、すらすら書かないと、いや、瞬時に英文を完成できるようでないと、実用的に英語を話せるようにはならないのです。のろのろと和文英訳をしたり英作文をするのでは、意味がない。ぱっぱっと和文英訳しなくてはいけないのです

 

 

ポイントを繰り返します。英語を話す土台作りのためには、文法を理論的に納得できるように学び、英作文に秀でるようにする。しかも、瞬時に和文英訳して英作文できるようにする。それだけで良いのです。それが英語を話すための最初のステップなのです。

 

 

しかし、問題はココにあります。瞬時に、文法的に、和文英訳する訓練を実施している、中高生のための学習環境が、当塾(シリウス英語個別指導塾)などを除けば、ほとんど整っていないということです。だから、すらすら英語を書くことができないのはもちろんのこと、ぱっぱっと英語を発することはさらに難しいことになるわけです。

 

 

 

瞬時に英作文できるようにするためには、中学英語の基礎固めをじっくり時間をかけて念入りに実施しなくてはなりません。なぜかというと、いきなり複雑な英文を作ることはできないからです。モノには順番があって、例えば、副詞(1単語)を使えるからこそ、副詞句(2単語以上からなる意味のカタマリ)や副詞節(主語+動詞からなる意味のカタマリ)を使えるようになるからです。ここの部分、本当の基礎重視というのが、普通の塾や学校ではできないことなのです。

 

 

 

もちろん、集団式でも、文法力や和文英訳力をある程度鍛えることは出来るかもしれません。しかし、瞬発力を養うことは出来ない。のろのろと英文を書くことはできるかもしれませんが、瞬時に発話できるようにはならない。そういう訓練が出来るのは、(僭越な言い方ではありますが)私どものような、経験と実績を伴う指導力のあるプロ講師による正真正銘の個別指導だけです。我々が、(儲からないにも関わらず)先生1人:生徒2人の個別指導を放棄して、先生1人:生徒1人の完全個別指導にこだわるようになったのは、上記のような理由からなのです。

 

 

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