オバマの広島スピーチ(2016年5月)は、美しい文学的な表現だったけれども、受け身表現を使うことによって、アメリカが原爆を投下したことをぼやかそうとしているというのは大変面白かったですね。
たしかに、アメリカという国家が核兵器を投下したのに、当のアメリカの大統領がそのことについて曖昧にするというのは、如何なものでしょうか。一般市民がたくさん住んでいる大都市に核兵器を使ったことに対して、反省の弁が全くないのは腑に落ちません。しかし、それ以上に問題視されなくてはならないのは、アメリカの非人道性について批判の声を出す日本人があまりにも少ない点です。
これとの関連で、是非とも高校生に一読を薦めたい本があります。文芸評論家として著名な加藤典洋が昨年(2015年) 出した、『戦後入門』(ちくま新書)です。というのは、原爆投下についてアメリカを批判・非難してはならぬとヒロシマ関係者が考えている点について,加藤は批判的だからです。加藤は次のように述べています。
「米国に対して、(中略)原爆投下に対する抗議と、謝罪要求を行うのが良いというのが私の考えです」(491頁)
加藤はもちろん日米対立を志向しているのではなく、「日本の社会と米国の社会の友好信頼関係」(494頁)を構築するために提案しているのです。とてもまっとうな主張です。しかし現実には、そういった考え方を支持する政治勢力は日本にないわけです。逆に言えば、そこに加藤の著作のユニークさと刺激性があります。せっかくですから、加藤典洋の考え方をもう少しだけ紹介しておきましょう。
原爆投下などについても日本人がアメリカを批判してはならない雰囲気があるのは、対米従属が空気の様に当たり前になっているからだと加藤は考えています。彼のこの著作の目的の一つは、日本を対米従属から独立させることを模索することに他なりません。
加藤の日本独立論のエッセンスは、国連中心主義という一種の国際主義に立脚する事により、「徹底的な対米従属志向かそれとも反米独立主義か」という従来のジレンマを避けることにあります。国際主義あるいは国際協調といった概念は、アメリカへの追従を意味しないのだと加藤は強調するのです。「国際社会への協調路線 ≠ 対米追従路線」というわけです。そして、そうする事により、国際社会のなかで誇りある地位を保ちながら、日本の誇りをも同時にうち立てようとします。加藤の国際主義は国連主義ですから、アメリカ社会と対等な関係を築くことは可能です。また、国際社会と対立するような復古的右翼的ナショナリズムからも区別されることになります。
政治的イデオロギーとしては、復古的な右翼ナショナリズムに回帰するのを防ぐとともに,改憲(=憲法9条改正)と軽武装を提案しており、従来の日本の左翼リベラルからも一線を画しています。左翼にも右翼にも満足できない人には、興味深い一つの選択肢ではないでしょうか。
新書本にして600頁以上もあるやや分厚い本ですが、平易な日本語で読みやすいと思います。さすがに誰にでも読むことを薦めたりはしませんが、東大・一橋・早慶の政治学、経済学、法学などの文系の難関大学を受験する高校生ならば、ぜひ読んでもらいたいと思います。英語の自由英作文や、慶應の小論文対策にも役立つことでしょう。
なお、加藤典洋の村上春樹論もなかなか面白いですよ。私自身は、『村上春樹の短編を英語で読む1979~2011』を大変興味深く読みました。現在は、『村上春樹は、むずかしい 』(岩波新書) を読んでいるところです。
別の書き手によるあとがき
そういえば、ちょうど昨日(2016年8月6日)もNHKスペシャルで『決断なき原爆投下』と題した番組が放映されていて、わが子と一緒に見ました。
当時の原爆開発担当者や軍の思惑と、そしてそこからは少しずれていたトルーマン大統領の当時の心情とが赤裸々に書かれた記録が紹介され、トルーマンという人にも人間的な情の部分が実はあったのかと、今までのイメージと少し変わりました。また、投下場所を決定する際の彼らのやり取りの中で、「京都に落としてしまったら多くの一般市民が犠牲となり、その後の日本人の反米感情を考えると、京都はない」といった場面も非常に興味深かかったです。
特筆しておきたいのは、当時の彼らアメリカ人も、戦後の日本人の反米感情を危惧していたのだということです。ところが、あれだけひどいことをされながら、反米感情どころか心の底から慕っている今の日本人に、彼らはきっとほっと安堵しているのでしょうね。めでたしめでたし。