日々中高生の皆さんと英語を勉強していて、成績が上がりやすい人と少し時間がかかってしまう人の違いというのがいくつかあると感じていますが、今日はその一つに焦点を当てて簡単にまとめておきたいと思います。
それは、自分の思考の道筋をちゃんと言語化できているかどうかということです。(これは英語の勉強に限ったことではなく、あらゆる勉強に共通して言えることですが、)
例えば、I am reading a book.という英文を訳しなさいと言われて
「私は本を読んでいるところです。」と訳したとします。では「なぜそう訳したのですか?」と質問すると、答えられない場合が少なくありません。とても不思議に思うのですね、何も思わずに、頭が空白のままでなぜこの英文を読んで正しく訳すことができるのだろう?と嫌味ではなく本当に不思議に思うのです。
皆さんは、5+3=8という計算をする時に、無意識だとしても、「あ、これは足し算だな」と一瞬思っているはずなんです。だから、5に3を足して8という答えが出てくるのですよね?「なぜ答えが8になるのですか?」と聞かれたら「5に3を足す足し算だからです」と答えればよいわけです。その言語化ができない場合がある。「え?何?5+3=8でしょ、何かほかに言うことある?」と困ってしまうわけです。
同じように上の英文も、「あ、これは現在進行形の文だな、それでは現在進行形の英文だとわかる日本語にしよう」と一瞬思っているからこそ上記のような訳になるのですよね?そこを聞いているだけなんです。
つまり、自分の脳が何か作動した、その作動の道筋を客観的に言語化して説明する能力、これをこちらは求めているわけです。ただ漠然とできました、では、ネイティヴなら許されても英語学習初学者にそれは許されません。なぜなら、これからどんどん様々な英文の形を学んでいくわけですから、その一つ一つにラベルを張って自分の脳にきちんと整理して収納していかなければ、やがて脳内はぐちゃぐちゃになり、何か取り出そうとしてもどこにあるやらわからなくて、即座に必要な情報を取り出すことが不可能になってしまうのです。
とにかく普段から、自分が今やっていること、考えていることを、脳内で言語化してみる、それを意識してみてはいかがでしょうか。恐らく、学習効果がはっきりと出てくるはずです。
東大受験を目指して河合塾全統記述模試や東大OP、または駿台の全国模試や東大実戦模試といった模試を受ける人も多いと思います。その中で、模試の成績や判定をよくするために模試の過去問を大量に解いている人が少なからずいるようです。
X(Twitter)などのSNSで東大実戦模試の過去問を集めたりする受験生を時々見ます。こういった勉強法をやっている人は今すぐやめましょう。
確かに東大OPや駿台実戦模試は実際の東大入試問題に類似した問題を出します。しかし、似せようとするあまりやや無理がある問題設定になっていたり、ちょっと癖のある問題になっていることがあります。英語に絞って言えば、あんな質の悪い(すみません)問題を解いても実際の東大入試には太刀打ちできません。(そもそも東大実戦模試の数学や理科の問題は実際の東大入試問題よりもずっと難しいことが多いというのは有名な話です。)
冠模試全部A判定だったのに東大落ちた、という人の中には、恐らく模試の過去問ばかり解いてある種の癖に慣れている人がいるのではないかと非常に危惧しています。
東大の入試問題は何か対策して太刀打ちできるものではありません。例えば数学が顕著だと思うのですが、難易度を巧妙に変えて揺さぶりをかけてきます。数年間超難問が続いていたのに突然易化させてフェイントをかけたりするのです。東大の数学は難しいからと難問ばかり演習して基本をおろそかにしている者にとって易化した時は思いのほか焦り、計算ミスをしたりします。
英語に関して言えば過去問を何十年分やろうが関係ないです。もっとがっつりと基礎を確立させておく必要があるのです。
実際、東大の過去問を20年分繰り返し解くのがいい、などという説を唱える人もいます。数学や理科などでは、そういうやり方が功を奏す人もいるのかもしれませんが、人によってはそういうやり方は全く意味がないという人もいます。
こと英語に関して言えば、過去問というのは、「ああこういう感じなのね。」と雰囲気を知るくらいでいいと思います。5,6年分を1,2周かな。あとはもっと違うことをすべきだと私たちは思います。
大学受験をするにあたって、多くの受験生が河合塾や駿台の模試を受けていると思います。そしてその結果に一喜一憂しながら過ごしているのだと思います。しかし、模試の判定はあくまでも参考程度に受け止める必要があります。必要以上に信じないということです。
巷では「A判定でも落ちる」「D判定でも受かる」という言説がありますが、それは実際によくあることです。当塾の生徒さんや個人的な知り合いの中にも該当する人はいますし、毎年国立大学合格発表後のX(旧Twitter)上には、「冠模試含めて全部A判定だったのに東大落ちた」といったような投稿が散見されます。
ではなぜそんなことが起きるのかといいますと、模試の採点がいい加減だからです。特に顕著なのは、現代文と英語(の記述)です。(模試の採点者を批判しているわけではありません。)
模試の採点は誰がやっているかといいますと、アルバイトです。勿論採用試験を通過した一定レベルの学力のある人がやっていることは確かです。しかし、中には現役の大学生もいるでしょうし、片手間でお小遣い稼ぎとしてやっている人も多いでしょう。
ここで問題なのは、例えば駿台全国模試レベルの記述問題であればかなり難問ですので、一人一人の答案をアルバイトが丁寧に採点することなどほぼ不可能です。まして、東大実戦模試となれば尚更です。
例えば、現代文のたった一問に対する記述の答案だけでも、本当に十人十色、色々な答案を書いてきます。その答案を一つ一つ丁寧に読んで、どこまで問いに対してきちんと答えているかを判断するなど、到底不可能です。勿論数人の答案を採点するならできるかもしれません。しかし、少なくとも仕事としてやる以上最低でも100人分の答案はみなければならないわけで、100人分の答案の一問一問をアルバイトの立場でそんなに丁寧に採点することができると思いますか?
模試の採点には採点基準なるものが提示されていますので、採点者はその基準に沿って採点していきます。例えば、「〇〇という言葉が書かれていれば〇点」といったような具合です。しかし、採点基準に挙げられている言葉を使っていなくても、本文の内容をしっかり理解し問いに対してある程度的確に答えられている答案だってあるはずです。(往々にしてよくできる人ほど自分の言葉で答案を書くので、採点基準にない言葉を使う可能性は大です。)
しかし、採点者はあくまでも採点基準に照らして採点をしていきます。そこに挙げられている基準以外の表現の場合、それが正しいか否か一人一人丁寧に吟味するには膨大なエネルギーと時間が必要ですし、自信をもって判断できる人は少ないので、必然的に採点基準に従うしかないわけです。
そうするとどんなことが起きるかと言いますと、実力があり、かなり正解に近い解答が書けていたとしても、意外と点数が伸びない、とか、実力はなくても高得点、ということが起こり得ます。
例えば、今年東大理科二類に合格したNさんの場合、第二回東大実戦模試の国語の成績は現代文12/40、古文0/20、漢文4/20、合計16/80しかとれず、偏差値41でしたが、本番の東大受験の開示では国語は47/80、つまりほぼ6割取れていました。
一方でネット上で見たある東大受験生(不合格)の話ですが、冠模試の国語の点数が大体50点前後(理系・80点満点)あったのに、本番の開示では20点ほどしかとれていなくて驚いた、やっぱり模試はあてにできない、といったような投稿がありました。
問題が違うというのも勿論ありますが、実際の東大の問題はよく練られた良問であること、採点者が、問いに対して的確に答えられているかどうかを非常に丁寧にしっかりと見てくれる。よって実力が反映される点数となる、ということだと思っています。
つまり、模試と本番の点数では、国語や英語の記述だけでも10点や20点は簡単に変わりうるし、それによって順位の100番や200番は簡単に入れ替わる。結果、D判定でも受かるしA判定でも落ちる、というのは当たり前のことなのです。
ではどうしたらよいか、といいますと、やはり信頼のおける指導者に〇〇大学合格のための実力がしっかりと備わっているかどうかをきちんと見極めてもらうということが必要となってきます。
例えば、その判定がたまたまとれたA判定なのか、実力の伴っているD判定なのか。たまたまとれたA判定よりも実力の伴ったD判定の方が強いのは当たり前。また、合格判定よりも順位を見る。自分の位置がその大学の合格定員ギリギリか悪くても200番くらいビハインドという位置にいるのかどうか。そのあたりであれば、D判定でも全く気にする必要はない。模試の採点は当てになりませんから、適当な採点でその位置ということは、本番ではもっと点が伸びるという可能性十分はあります。
※但し、その判断というのは、個々の受験生の状況を細かくみてみないとなんとも言えません。模試の判定が適切な人もいるかもしれないし、全く外れているという場合もあります。一般論では語れないということを強調して今日はここで終わりにします。
ここのところなにかとバタバタと忙しくブログの原稿を書くことができていませんでした。やっと少しずつ時間が取れそうになってきましたので、遅ればせながら、まずは今年度の受験結果等についてご報告しておきたいと思います。
【令和6年度入試結果】
◎中央大学・法政大学・國學院大學・二松学舎大学(いずれも文学部)合格ーーー世田谷学園T君
◎上智大学理工学部、明治大学理工学部合格ーーー栄光学園F君
◎日本医科大学(一次)、慈恵会医科大学医学部医学科(一次)、東京大学理科二類合格ーーーSさん
今年は3名の受験生が奮闘してくれました。三人ともそれぞれの置かれた環境の中で最後まで頑張り抜きました。本当におめでとうございます。
今年の受験生3人について言えば、それぞれが各自とても個性的な受験生だったと思います。たとえばT君は、中学生の頃から通ってくれていましたが、その当時から受験期までほぼ一貫してマイペースを貫きました(笑)。国語が得意で英語が苦手というタイプの生徒でしたが、最後まであきらめることなくしっかりと中央大学や法政大学の合格を勝ち取られたのは立派でした。
F君は模試では非常によい成績がとれていましたが、第一志望は残念な結果となり(※)、上智大学に進学することになりました。しかし国立の大学院まで進むという確固たる目標をしっかりと我々に語ってくださいました。将来がとても楽しみです。(※)については大事な話題ですので改めてブログ記事にします。
最後に、今年一番の大ホームランを打ってくれたSさん、ありがとう。
なんと、私立医学部御三家の日本医科大学と東京慈恵会医科大学の両方に一次合格(筆記試験合格)、そして本命の東京大学理科二類に見事合格されました。
(因みに慶應大学医学部も合格射程圏でしたが、今年度は慶應医学部の受験日が慈恵の翌日となり、本命の東大入試に余力を残しておいた方がよいとの判断で受けませんでした。)
日本医科大学、東京慈恵会医科大学、慶應大学医学部という私立医学部御三家や東大にどうしても合格したいと希望されている方は多いと思いますので、こちらもまた改めて具体的な解説を記事にしたいと思います。
ひとまずは今年度の入試結果のご報告でした。
今年(2024年)の東大英語の要約問題について、2回にわたってブログ記事を書いてきた。「2024年東大英語要約[1]問題と解答 」と、「2024年東大英語要約[2]ーー2つの解釈の可能性」である。しかし、どうもまだ書き足りない。そこで、あと一回、ちょっと長めの注釈をつけ加えることにする。なお、今回のブログ記事は、これら2回の記事が半ば前提となっている。
2024年の要約問題についてネットでいろいろと検索して調べてみると、「簡単だよ」みたいな意見がちらほら見つかる。しかし、そんなことは絶対にない。実際、様々な「模範解答」の要約文を読んでみる限り、異なる二つの見解に分裂している。どちらの見解がより正しいのか、最終的な決着をつけられるのか否かは不明だが、この争点に取り組んでみる必要がある。(なお、東大の解答は、ある程度様々な解釈を許容していると想像している)。
とくに注目すべきは、以下の第四パラグラフである。
Bernays’s Propaganda opens by pointing out that the conscious manipulation of the organized habits and opinions of the masses is the central feature of a democratic society. He said: we have the means to carry this out, and we must do this. First of all, it’s the essential feature of democracy. But also (as a footnote) it’s the way to maintain power structures, and authority structures, and wealth, and so on, roughly the way it is.
私がつけたアンダーラインの箇所に注目してもらいたい。ほとんど同じような内容の文と語句が二度、つまり、”Propaganda is the central feature of democracy”だと書かれてある。Bernaysが、その著書で主張している言葉だ。日本語に意訳すれば、「プロパガンダ(=大衆の思考操作)は、民主主義社会にとって、絶対に欠かせぬものだ」となるだろう。
これらの文が大事なことは、疑う余地がない。しかし、その解釈はとても厄介だ。理由は二つある。
一つは、この命題は Bernays の著書の主張なのだが、作者の見解を代弁しているのか、そうでないのか、必ずしも明瞭ではないのである。我々はどちらの立場に立つのかを明らかにしなくてはならない。
もう一つは、民主主義という近現代では正(プラス)の概念を表す概念が、プロパガンダという負(マイナス)の概念と並べられ、結び付けられていることに由来する。民主主義によって、プロパガンダを正当化しているのか?あるいはその反対に、プロパガンダという負の概念によって、民主主義の否定的側面や欺瞞などを、批判的に論じようとしているのか。
読み手としては、ここで大いに悩むのは、当然ではないか? 次のようなA説 B説に分裂してくるはずだ。
A説は、書かれてある文に対しては、ほとんど悩むことなく無批判にそのまま受け入れる立場である。
近現代人が常識的に考えるならば、大衆の思想操縦をするのが民主主義の特徴だというBernaysの議論は、少々受け入れ難い。大衆の思想操作という考え方は、いわゆる洗脳やマインド・コントロールと紙一重だ。あるいは、ジョージ・オーウェルの反ユートピア小説『1984年』の世界を想起させてしまう。そのような技術、つまり反民主主義的に思われる技術が、実は民主主義の特徴だと言われても、理解に苦しむはずだ。しかも、その命題の作成者は、書き手本人ではないのだ。
書き手が、どのようなメッセージを発しているのか、読み手がよく理解できない時、どうやって手短に要約できるのか。A説では、書かれてある文を、たとえその意味がよく理解できなくても良いから、すべてそのまま受け入れてしまいましょう、という立場である。
つまり、(1)Bernaysの見解は書き手の見解を代弁している、(2)Bernaysの命題(プロパガンダと大衆の思想操作は、民主社会には不可欠だ)を、単なる意見ではなく、事実であるとして認定して認めましょう、という立場に立っている。
ちょっと驚いたことに、大手予備校の解答速報は、この立場に立っているようである。以前のブログでも紹介したが、再度掲載しておこう。特に下線部のところに注目してもらいたい。
東進
米国での企業のプロパガンダは、暴力を用いない大衆心理の 操作を目標とし, これは民主社会の要と認識されていたが、 ヒトラーによる印象悪化を受けてその呼称は変えられた。 (東進、80字)
駿台
企業のプロパガンダは暴力に頼らない大衆心理の操作を目的としており、民主主義の本質的特性だが、この用語自体は第二次大戦中の悪印象のため、現在は使われていない。(78字)
河合塾
企業のプロパガンダが目指す非暴力的な大衆心理の操作は、当初は民主主義の根幹をなし社会を維持する手段とされた。だが、この語は戦時中に印象が悪化し使われなくなった。(80字)
代ゼミ
暴力に頼らず大衆の心を操作し、民主主義体制を維持するため、戦間期に米国で生まれたプロパガンダは、今では呼称を変えて、宣伝広告などとして世界中に広まっている。(78字)
いずれも、Bernaysの説、つまり彼の著書『プロパンガンダ』の中の文章が、彼の意見ではなくむしろ客観的な事実であるとして、として要約文に反映している。
書き手はいったい何者で、どのようなメッセージを読み手に訴えかけているのか。そういうことを一才考慮せず、パラグラフごとの論点をペタペタと要約文に並べているから、Bernaysの文を事実にまつあり上げているのだろうと、私は考えている。
この立場は、民主主義のためのプロパガンダという説に、大いに違和感を持つことから出発する。
すると、(1)Bernaysの説は、この文の書き手の認識とは異なるのではないか。(2)「プロパガンダが民主主義の本質なのだ」という命題をそのまま受け入れているのではなく、むしろ、反語的レトリックとして用いているのではないか、と考える。反語というのは、Bernaysの命題と正反対の認識を書き手は持っているからだ。
具体的に言えば、例えば、プロパガンダに支えられている民主主義があるとしたら、それは民主主義と呼ぶに価しない。あるいは、「プロパガンダが民主主義の本質なのだ」という説は、プロパガンダを正当化するために流したBernaysのデマに過ぎないと捉えてるのだ。つまり、書き手の意図を汲み取って、Bernaysの命題を批判的に捉える。
もしかすると、第4パラグラフに書かれてある文章を全部反語的に読めと言う見解は、かなり極端なものに思われるかもしれない。しかし、反語的レトリックだと解釈するのが、文章の流れから言っても、また書かれている内容のショッキングさから見ても、むしろ自然の流れなのである。以下、理由を説明していく。
1)全文の冒頭の文において、企業プロパガンダがアメリカの大きな問題だと提示している。そのような問題意識を持つ書き手が、Bernaysの命題を説をそのまま全面的に認めるのは、あり得ないではないか。むしろ、「そんなケシカラン理念を持っている奴がいたのだ!」と怒ったり、「そんな悲しい事実があったんだ」と悲嘆することが期待されているはずだ。
2)第五(最終)パラグラフにおいて、プロパガンダという技術はヒトラーのナチス政権においても積極的に活用されたことを確認できる。その結果、本文では、「プロパガンダのイメージが悪くなった(Its image got pretty bad)」と簡単に記述してあるだけだ。しかし、プロパガンダが民主主義と表裏一体であるかのようなBernaysの説が、全く説得力を失ってしまったと見ることも出来る。
3)Bernaysの命題は、現代人の我々の良識に著しく反する命題であり、それを教育機関でもある東大が、入試試験において、そのまま肯定的に提示するとは思えない。これは、英語試験についての内在的な議論ではない。しかし、こういうコメントも必要であろう。
4)これらの議論に加えて、もう一つ、背景的知識や教養から得られる推論や考え方を提示しておく。実を言うとこのプロパガンダ論は、ある程度、社会科学的な読書をしていれば、どんな人物が書き手なのか、想像出来てしまう。
ずばり言えば、書き手は非マルクス主義・非共産党系の左翼・リベラルの知識人であろう。つまり、ラディカル・リベラルであるとか、アナーキズムなどの思想信条の持ち主である。
なぜか。全体的なトピックは、マルクス主義の「ブルジョア民主主義」批判に近い。特にマルクス主義の「文化へゲモニー論」(グラムシ)や、「国家のイデオロギー装置」(アルチュセール)を想起させる。しかし、決してマルクス主義の言葉を用いて議論しない。あくまでも平易な言葉によって、文が綴られている。上記のことから、想像できるわけだ。
この時、書き手はおそらく大衆民主主義(Popular Democracy) の支持者であろう。他方、大衆の思想操縦を求めるBernaysの命題は、おそらくエリート主義を前提とする民主主義として浮かび上がってくる。知的エリートが大衆の意見や思考を操作・操縦しなければならなない、エリート主義的民主主義である。もちろん、大衆民主主義とエリート主義的民主主義は、政治的に対立する。
書き手が非共産党系左翼であれば、Bernaysの命題を反語的にのみ取り上げたのであろうと結論づける。噛み砕いて言えば、左翼が保守エリート主義者を褒めるはずがない、ということだ。(こんな推察力は、受験生には全然求められてはいません。念の為)
バーネイズの命題を反語的に捉えるとは、具体的にはどう言う解釈か。どうやら二つの解釈があるようだ。一つは、「プロパガンダが根幹にある民主主義はクソである」だ。もう一つは、「プロパガンダが民主主義の根幹にあるなどという命題はデマに過ぎない」だ。もう少し詳しく説明しよう。
この立場では、Bernaysの主張を限定的に認める。つまり、「民主主義」の存続のために、プロパガンダが有効に活用されている事実があるだろうと考える。
しかしながら、このときの「民主主義」には、人民が統治するという意味での民主主義の理念はない。民主主義の皮を被っているだけで、実質的には、エリートが大衆を内面から操っている寡頭制政治にすぎない、と考える。Berynaysの「民主主義」は、もはや尊重するに値しないのである。
なにしろ、Bernays自身も彼の著作の注釈に記しているように、プロパガンダによって、エリートが握っている権力や富の構造を、そのまま維持し保存することが出来るのである。
以上の観点から要約を試みてみよう。
B-①の要約文
プロパガンダは、特権層の利権を守るために、大衆の思考を操作する技術だ。かつては露骨に正当化されたが、ヒトラーで印象が悪くなり、現在は水面下で運用されている。(78字)
これが私が選んだ立場である。民主主義を維持するのに、プロパガンダが役立っているという奇妙な命題そのものが、彼のデマに過ぎないと解釈している。
このような解釈に至ったのは、最終パラグラフで書き手が述べたことが、全体の話のオチであると考えたらからである。(B-①では、最後のオチをうまく説明できないと私は考えている。オチのない文章はつまらないではないか)
最後のパラグラフ(次の文)をどう解釈すべきか。
I should mention that terminology changed during the Second World War. Prior to World War II, the term propaganda was used, quite openly and freely. Its image got pretty bad during the war because of Hitler, so the term was dropped. Now there are other terms used.
プロパガンダは、かつては公然とあからさまに実行されていた。しかも民主主義と一体であるとまで、その正当性が謳われていた。しかし、ナチスのヒトラーが使っていると分かると、さすがにそのイメージが悪くなった。単調に平板に読んでいくとそんなことが書かれてある。
だがこんな平板な解釈では、今回の文を締めくくってもらっては、大変困るのだ。もう一度よく考えてもらいたいのだが、直前の段落では、大衆の思想の操縦というマッドサイエンティストのような反倫理的技術が取り上げられ、しかもそれが実は民主主義の特徴だと訴えられていた。ぶったまげるような命題ではないか。
第四パラグラフをまともな神経のある読み手ならば、「この書き手はいったい何を言いたいのだ!」と叫びたくなるはずだ。もしそのまま放置されたら、内的な緊張が高まってバランスが取れず、落ち着いていられないではないか。要するに、矛盾に満ちた宙ぶらりんの状態に対して、一挙にその矛盾を解消してくれるオチが求められているのだ。
ただし、一つ注釈を加えておく。「大衆の思考を操縦することが民主主義の要である」と言う命題に何の疑問も深刻な矛盾も感知しえないという人にとっては、矛盾解消だとかオチは、全く必要と感じられないということだ。したがって、以下の文は、大衆の思考を操るのが民主主義だという命題に矛盾を感じる人にとってのみ有効な議論である。
さて、上記の命題が深刻な矛盾であると捉える読み手にとっては、最後のプロパガンダ=ナチス・ヒトラーという事態への言及は、とても痛快なオチと映るはずだ。プロパガンダという言葉のイメージが単に悪くなっただけではないのだ。プロパガンダ=独裁政権なのだから、プロパガンダ=民主主義という表看板それ自体、ほとんどウソなのだと暴露されたのである。プロパガンダは、常識的にも想像つくことだが、民主主義の理念には何の関わりもないのだった。正体が暴露されたので、プロパガンダは以後は影に隠れて実施されるようになったのだ。
英文全体としては、プロパガンダが表立って公然と運用されていた時代がかつては存在し、第二次対戦後には現在のように水面下での運用が継続しているようになった経緯を語ってくれた。
以上の観点から要約文を書くと、つぎのようになる。
B-②の要約文
プロパガンダは、特権層の利益を守り、大衆の思想を操る技術だ。かつては民主主義のためと称し公然と運用したが、ヒトラーが使うと嘘がばれ、現在では水面下で実施中だ。(79字)
以上
正直に書くと、2024年の東大英語1(A)の要約問題について、こんなに長い文章を書く予定は全くなかった。本来の目的は、生成AIには文章の中にある反語的表現やオチを読み取る力がない、だから東大英語を適切に要約できないのだ、と書く事であったか。つまり、ChatGPTには起承転結が分からない、を継承する記事である。
ところが予想に反し、大手予備校の解答速報をはじめ、大半のオンライン上の模範解答も、文章中の反語やオチを読み落としているのだ。「民主社会の要にはプロパガンダがある」という趣旨のフレーズを要約文中に入れているので、非常にびっくりしてしまった。反語的な言語表現を全く理解していないのだ。仕方ないので、なぜ反語的なのかを長々と論じることになってしまった次第だ。
もちろん自信を持って大手予備校ダメじゃないかと書けるのは、本文では言及しなかったが、書き手がチョムスキーであることをわかっていることが分かっているからでもある。チョムスキーの政治思想をある程度知っているならば、民主主義の本質はプロパガンダだ、などと絶対に書かない。こんなのは常識であろう。だから大手予備校の解答速報は間違いだと言い切れたわけでもある。もっとも非共産党系非マルクス主義的ラディカルであることは、英文だけで十分推測できてはいた。
あともう一つ書いておきたいことがある。BernaysやChomskyについてはWebでたくさんの資料が出てきたので、機会を設けて関連する資料(BBCのドキュメンタリー映像、この英文に密接に関連している東大教授のサイトなど)について、近いうちに紹介しておきたいのだ。BBCのドキュメンタリーがとくに面白そうである。