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2024/07/05

模試の過去問演習などするな!

東大受験を目指して河合塾全統記述模試や東大OP、または駿台の全国模試や東大実戦模試といった模試を受ける人も多いと思います。その中で、模試の成績や判定をよくするために模試の過去問を大量に解いている人が少なからずいるようです。

 

 

X(Twitter)などのSNSで東大実戦模試の過去問を集めたりする受験生を時々見ます。こういった勉強法をやっている人は今すぐやめましょう。

 

 

 

確かに東大OPや駿台実戦模試は実際の東大入試問題に類似した問題を出します。しかし、似せようとするあまりやや無理がある問題設定になっていたり、ちょっと癖のある問題になっていることがあります。英語に絞って言えば、あんな質の悪い(すみません)問題を解いても実際の東大入試には太刀打ちできません。(そもそも東大実戦模試の数学や理科の問題は実際の東大入試問題よりもずっと難しいことが多いというのは有名な話です。)

 

 

冠模試全部A判定だったのに東大落ちた、という人の中には、恐らく模試の過去問ばかり解いてある種の癖に慣れている人がいるのではないかと非常に危惧しています。

 

 

東大の入試問題は何か対策して太刀打ちできるものではありません。例えば数学が顕著だと思うのですが、難易度を巧妙に変えて揺さぶりをかけてきます。数年間超難問が続いていたのに突然易化させてフェイントをかけたりするのです。東大の数学は難しいからと難問ばかり演習して基本をおろそかにしている者にとって易化した時は思いのほか焦り、計算ミスをしたりします。

 

英語に関して言えば過去問を何十年分やろうが関係ないです。もっとがっつりと基礎を確立させておく必要があるのです。

 

実際、東大の過去問を20年分繰り返し解くのがいい、などという説を唱える人もいます。数学や理科などでは、そういうやり方が功を奏す人もいるのかもしれませんが、人によってはそういうやり方は全く意味がないという人もいます。

 

こと英語に関して言えば、過去問というのは、「ああこういう感じなのね。」と雰囲気を知るくらいでいいと思います。5,6年分を1,2周かな。あとはもっと違うことをすべきだと私たちは思います。

 

 

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2024/05/28

東大英語”Nollywood”ー何が難しい(2)

『東大英語リーディング』への道ーー “Nollywood”を読む

目次

0)はじめにーー『東大英語リーディング』は通過儀礼だ

1)”Nollywood”の何がそんなに難しいかーーー今回の記事(2)occlusion of republicanismをめぐって

 

抽象語(hegemony, illegitimacy, representationなど)がどんな具体的現実を示唆しているのか分かり難い

従来の「常識」を覆す議論がさりげなく出てくる(Igbo society is direct democracy in action, republicanism and village democracy as political forms)

客観的な事実の羅列からなる歴史記述ではない

2)どのような方法で読んでいくのか

 

A

◎固有名詞について整理する(民族・人物一覧表、年表、地図作りなど)

◎キーワードへの注目

 

B
◎紙やアプリの辞典・事典(大辞典、文法書、百科事典等)の活用

◎オンラインの辞典(Wiktionary, OneLookなど)、百科事典(wikipediaなど) 、YouTube、ネット検索等を活用し、背景となる知識イメージや関連文献を調べる

◎生成AIを活用するーー概要、語彙・登場人物・地名リストなど、キーワードの質問

 

 

 

これは、前回のNollywoodー何が難しいのか(1)の続きです。前回は、次の文の(A)の箇所を扱いました。

 

 

As (A)representations of the Igbo past, the most surprising feature of the cultural epics is the complete (B)occlusion of republicanism and village democracy as political forms. In the Movies, there is always an igwe surrounded by a council of elders. Kingship was not unknown among the Igbos, but generally the Igbos did not have kings and did not want them.

 

今回は(B)の箇所 the complete occlusion of republicanism and village democracy as political forms を読んでいきます。

(B-1) occlusionの意味するものは?

<分かり難い理由>
抽象語の意味が分かりにくい 

②今までの常識を覆す概念が、さりげなく提示されている

客観的な事実の羅列からなる歴史記述ではない

 


まずはocclusionという単語が難しい。いくつかの辞書を調べると、「閉塞」「遮(さえぎ)ること」といった語義が英和辞典に載っています。よく分かりませんね。

 

こういう時は、英英辞典にあたってみるのが普通で、動詞形(occlude)を調べますと、“occlude something to cover or block something “ (Oxford Advanced Learners) とあります。残念ながら、この説明では役には立たないようです。

 

結局、「政体としての共和主義や村落民主主義を完全に閉め出すこと」とでも訳すしかないでしょう。しかし、具体的にどのような事態を描いているのかイメージしにくいでしょう。理解しにくいですね。しかし、実を言えば、人類学や歴史学の本にある程度親しんでいれば、書き手が何を言わんとしているのか、容易に見当つけられます。簡単に説明してみましょう。

 

歴史学者・人類学者として著名なエリック・ホブズボームという学者がいたのですが、彼の提起したthe invention of tradition (「伝統の創造」と訳します。ただし、「伝統の捏造」という訳語もあったはずです)という概念が、非常に参考になります。要するに、過去には実際には無かったことであっても、大昔から伝統であるかのように、歴史を書き換えてしまうことを指します。


(なおWikipediaの説明は、invented tradition (Wikipedia) (←クリック)を参照してください。

 

つまり、ホブズボームの読者ならば、the complete occlusion of republicanism and village democracy as political formsという箇所を読めば、「ははーん、『伝統の創造』のような事態があるのだな、植民地以前には実際に存在していた共和主義や村落民主主義が、歴史的に、,あたかも存在しなかったことにしてしまうのだな」と解釈できます。

 

そして、英文の意味を言葉を補って訳してみれば、

 

 

[歴史上存在した] 共和主義や村落主義という政治形態が、

 

[ナリウッド映画の中では] 完全に無いことにされ、

 

[植民地以前の伝統的イボ社会は王国で、王様が統治していたことにされた] 

 

 

   [ ] の部分は私の加筆です。

 

 

 

 となるでしょう。

 

 

さて「伝統の創造(捏造)」という視点を得たならば、23−25行目(次の頁の最初の3行)にある次の文にある、“traditional rulers“の意味も容易に理解できるはずです。“traditional rulers“もまた、「創作された(捏造された)伝統」の産物という意味だと見当がつく訳です

 

 

Under successive structures of colonial and postcolonial governance, “traditional rulers” were certified or invented in order to play a mediating role between local communities and higher levels of government.

 

この部分を試訳してみると、次のようになります。

 

植民地時代および植民地以後の統治機構のもとでは、「伝統的統治者」が認定されたり創られたりした。彼らは、地域社会と政府上層部との媒介役(=かいらい役)を担ったのだ。

 

“traditional rulers”(「伝統的統治者」)のように“…”がついているのか何故かといえば、イボ人の伝統社会には、「伝統的統治者(=王様)」なるものは存在しなかったが、間接統治を企てるイギリス植民地政権の都合だとか、植民地後の新興政権の都合によって、あたかも昔から存在した由緒正しいかのような王様が創られていたからです。全然伝統的ではないのに、伝統を装っているので、“…”がついているという訳ですね

 

 

ホブズボームのような議論を聞いたこともない、普通の東大1年生には、ちょっと難しいかもしれませんね。しかし、ホブズボームを知らないだけが原因ではないでしょう。

 

 

高校生まで、歴史学習とは客観的な事実の羅列を覚えることでした。異なる解釈はあるにしても、一つひとつの概念は、しっかりとした客観性を備えていました。しかし、大学生になると、単純な客観的事実が「在る」という訳にはいかなくなります。このテキストでも、文化的次元の事実(=映画や小説の中の話)と客観的事実が複雑に絡み合ってきます。

 

 


映画の中で存在している王と王国と、歴史上存在していた政治形態とが交錯してしまいます。それを英文で書かれると、しかもアフリカの諸事情に関することですから、ほとんどの学生は容易に混乱してしまうでしょう。(ちなみに伝統的なヨルバ人社会には王は存在していたと思われます。イボ人とヨルバ人の区別が付かない大学初学者には、さらに追い討ちをかけるものとなったでしょう)。

 

 

ちょっと余談ですが、早稲田の文学部の英語の入試問題でも、同様な難しさを抱える文章が出されたことがあります。インドのカースト制度に関する文章でしたが、客観的事実として存在するカースト制というのではなく、大英帝国の植民地の統治政策の都合から、イギリス人の植民地官僚によって産み出されたカースト制という概念が主題化されていました。「インド社会にはカースト制度が在った」ではなく、イギリス人植民地官僚が「有ることしたカースト制」ですね。高校生である受験生には、たいそうな難問(奇問)だと言えましょう。



話を再度テキストに戻しましょう。実は、さらにまた混乱を誘うであろう事柄があります。それは本書で言及されているイボ人の大作家アチェべの小説(Achebe, Things Fall Apart、翻訳は『崩れゆく絆』(光文社新訳文庫)ですが、この作品も明らかに representations of the Igbo past (イボ人の過去を描いた作品)なのですが、ここでは歴史的な客観的事実を記述するものとして引用されています。


客観的事実と政治的文化的次元での事実がごちゃごちゃして、丁寧に整理して読まないと、読者はかなり混乱しそうですね。塾や予備校の講師であれば、客観的事実と政治的文化的事実とを色分けしましょうと提案するかもしれません。しかし、このテキストには、そういう指示はありません。また、おそらく東大の先生もそこまで親切ではない。大学一年生は、自らの手で切り開く力が求められているのです。

 

 

 

(Bー2)republicanism and village democracyとは?

 

<分かり難い理由>
②今までの常識を覆す概念が、さりげなく提示されている

 

the complete occlusion of republicanism and village democracy as political formsのrepublicanism and village democracyの後半部に注目してみます。

 

 

もう一つのちょっと驚くべき話題が、さりげなく言及されていたことに、気が付いたでしょか。republicanism and village democracy、すなわち、植民地以前のアフリカに、共和主義と村落民主主義があったというのです。

 

 

従来の旧い常識では、共和主義や民主主義のような政治形態は、古代ギリシャに由来するか、近代化に伴ってもたらされるものでした。ところがこの英文によると、植民地以前のアフリカのイボ社会においても、共和主義と村落民主主義であったというのです。つまり、これまで私たちが慣れ親しんできた民主主義や共和主義とは異なる形態のそれが、前近代・前植民地時代のイボ社会に存在していたというのです。

 


そして、もしこの語句に読み手が驚いたりショックを受けていない人は、おそらくは英文をまともに読んでいないのだと推察されます。

 

 

この東大生向けの教科書に、もう少し詳しい注釈があればなあと、とても残念に思います。しっかりとした指導者がいる教室であれば、植民地以前のアフリカの共和主義と民主主義について、調べもの学習が始まっているかもしれませんが、ちょっと不親切です。従来の西欧中心主義的な民主主義、あるいは文明観を突き崩すラディカルな議論なのでしょうから。

 

 

 

ところで、人類史に対する見直しは、知的な社会人やビジネスマンにとっても、どうやら興味深い話題として取り上げられるようです。例えば、作家の村上春樹が絶賛していた知的な一般雑誌にThe New Yorker というのがあり、彼の短編作品の英訳もしばしば掲載されているのですが、このニューヨーカー誌でも、人類史が大きく取り上げられます。私自身が読んで感銘したのは次の記事です。

 

Gideon Lewis-Kraus, “Early Civilizations Had It All Figured Out, (⇐クリック)New Yorker (November 1, 2021) 

 

 

 

そして、この記事で大きく紹介されていたのが契機で、取り寄せて読んだのが、

 

 

David Graeber & David Wengrow, The Dawn of Everything, 2022 (邦訳あり)

 

 

です。いずれもアフリカの民主主義や王権について直接触れているわけではありませんが、中央アメリカや中近東における原始的民主主義あるいは「そんなに原始的ではない」民主主義について、興味深い内容が記載されています。この大部な本について要約することは不可能ですが、民主主義が西欧の伝統であるという見解が疑問にさらされているのは明らかでしょう。

 

 

また、著者の一人David Graeberは、次のタイトルの本も邦訳で出版しております。直接的にアフリカへの言及はないかもしれませんが、なにか参考になりそうです。なにしろ、「民主主義の非西洋的起源」なのですから。(ただし、原題は日本語タイトルとは少し異なります)。

 

 

デヴィッド・グレーバー(著) 片岡大右(訳)『民主主義の非西洋起源について』(2020)

 

 

さらに調べてみますと、この英文の話題とぴったりの本が、昨年(2023年)にみすず書房から出版されていることが分かりました。なにしろ、植民地以前のイボ社会をEarly Democracy (初期民主主義)として取り上げているのですから。 

 

 

デイヴィッド・スタサヴェージ『民主主義の人類史』(2023年)(←クリック)

 

 

です。原題は、David Stasavage, The Decline and Rise of Democracy: A Global History from Antiquity to Today, 2020 (⇐クリック)です。

 

 

 

本書の紹介文を引用します。

 

 

 

In the book, Stasavage argues that democracy has been more common throughout history than is often assumed, and he provides examples of democratic practices in various ancient and pre-modern societies around the world, including in Africa.

 

 

Specifically, he discusses the political systems of the Igbo people in present-day Nigeria and the Tswana people in present-day Botswana. He argues that these societies had elements of democracy, such as checks on leaders’ power and forms of popular participation in decision-making.

 

 

全訳はしませんが、簡単にまとめると、

 

 

 

初期デモクラシーは、古代アテネ以外にも世界中に広範に存在した。特にイボ人社会には民主主義の要素があり、権力に対するチェック・アンド・バランスがあったり、意思決定にあたって参加民主主義の仕組みがあった

 

 

なるほどと思います。さりげない語句でしたが、こういう人類史な視野を持つ民主主義論にもつながっていたようです。『東大英語リーディング』は大変奥が深いことを実感させられます。

 

 

 

 


今回はこれまでです。『東大英語リーディング』の読解の難しさを少しでも伝える事ができたでしょうか。次回は、Nollywoodのような難解な英文をどうやって読み解けばよいのか、その方法について考えます。

 

 

 

 

 

 

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2024/05/26

『東大英語 “Nollywood”』(1)何が難しい?

『東大英語リーディング』への道ーー “Nollywood”を読む

目次

0)はじめにーー『東大英語リーディング』は通過儀礼だ

1)”Nollywood”の何がそんなに難しいかーー今回の記事(1)representations of the past をめぐって

 

 

抽象語(hegemony, illegitimacy, representationなど)がどんな具体的現実を示唆しているのか分かり難い

 

従来の「常識」を覆す議論がさりげなく出てくる(Igbo society is direct democracy in action, republicanism and village democracy as political forms)

 

客観的な事実の羅列からなる歴史記述ではない

2)どのような武器で読んでいくのか

①固有名詞について整理する(民族・人物一覧、年表、地図作りなど)

②大辞典と物書堂の辞書アプリを活用する

百科事典、Wikipedia 、YouTube、ネット検索等を活用し、背景となる知識イメージや関連文献を調べる

生成AIを活用するーー概要、語彙、和訳、キーワードについての質問する

 

 

 

さて前回の記事で、東大教養過程の英語教育で求められるものが大層難しいのだぞ、ということだけはご理解していただけましたでしょうか。

 

 

 

 

 

東大教養学部(大学1、2年生)で用いられる文は、文理共通の教科書である『東大英語リーディング』(2022)です。ここではそのうち、Sessionn13−14のNollywood(=ナイジェリア映画論)、とりわけSession14の冒頭を、このブログでは取り上げます。これはアフリカ文学研究者Jonathan Haynes大部な書物から採られています。Session 13 では イボ人(Igbo)たちの映画制作の歴史的経緯を、イボ語映画から英語映画へと転換した過程を論じていました。そしてSession14からは、より難解な理論的記述となります。

 

この英文が難しい理由を予め箇条書きに列挙しますと、以下のようになります。

 

 

 

抽象語がどんな具体的現実を示唆しているのか分かり難い

 

従来の「常識」とは反する議論がある

 

客観的な事実の羅列からなる歴史記述ではない

 

 

 

 

Session14の冒頭は、次のような英文で始まります。

 

 

 

 

As (A)representations of the Igbo past, the most surprising feature of the cultural epics is (B) the complete occlusion of republicanism and village democracy as political forms. In the Movies, there is always an igwe surrounded by a council of elders. Kingship was not unknown among the Igbos, but generally the Igbos did not have kings and did not want them. (A, Bは、私が付けたものです。なお、今回の記事は(A)のみです)。

 

 


最初に誰もが気がつくのは、ここで出てくる英文は、文法・構文・語彙のレベルでは超難解などではないということです。主語・動詞がどれだか分からないとか、辞書には全く載っていないような専門用語や俗語が続出するといったこともありません。大学受験生的に言えば、『ぽれぽれ』のように難しくはないのです。
一通り訳出することは、純粋な英文解釈の教材として考えれば、むしろ容易です。

 

 

それにも関わらず、多くの大学一年生にとって、かなり厄介な英文に違いありません。要するに、訳せるかもしれないが、いったいどういう意味なのか、理解しにくいからです。ましてや多くの日本人にとって馴染みのないアフリカの話ですから、意味がとれなくなってしまいやすいのです。

 

 

 

(A)”representation of the Igbo past”とは何か?

 

 

①抽象語(representations)が示唆している具体的現実が分かりにくい

 

 

一番最初の“representations of the Igbo past“から、ちょっと理解しにくいのではないでしょうか。もちろん単に訳出するだけならば、簡単かもしれません。「イボ人の過去の表象として」でも、間違ってはいない。しかし、この言葉が何を意味しているのか、訳しても意味不明でしょう。と言うのは、ちょっと前まで高校生だった新入生にとっては、”representations” =「表象」では、ピンとくるハズが無いからです。

 

 

 

大人ならば、「表象」という言葉にもう少し馴染みがあるかもしれません。例えば私の愛読書だった書物の翻訳タイトルはイーグルトン『表象のアイルランド』でした。これはアイルランドを描いた小説に関する文学論です。また、東大の教養学科(後期の専門課程)には、表象文化論のコースがあるたはずです。

 

 

つまり、「表象」というのは、文学、音楽、演劇、映画、漫画などの様々な芸術や文化活動を、ちょっとアカデミックに議論する時に用いる言葉です。(東大で大学生になれと言うのは、そういう高尚な議論に馴れなさいと言うことでもあるでしょう)

 

 

もちろん英和辞書などを調べるのも良いやり方です。すると、representationsには、表現、描写だとか、あるいは、絵画、彫像といった意味があることがわかります。さらに例文にも目を通すべきでしょう。有益なものを選び出すと、次の例を挙げられます。

 

 

 

”a realistic representation of war” 「戦争を写実的に描いた作品『新編英和活用大辞典』

”a vivid representation of Russian life” 「ロシア人の生活の生き生きとした描写(『ウィズダム英和辞典』)

”a representation of a bird of paradise” 『極楽町の彫像 [絵画 ] (『新英和大辞典』)

とすれば、”representations of the Igbo past”は、「イボ人の過去を描くこと」や「イボ人の過去を描いた作品」、あるいは、「イポ人の過去を描いた小説[または彫刻、音楽、映画]」となるはずです。しかし、それでも大半の大学一年生には、まだまだピンと来ないだろうと推測します。なぜならば、「イボ人の過去を描く作品」では、依然として抽象的だからです。

 

 

④従来の「常識」では理解しにくい

 

 

問題は、「表象」の代わりに「◎◎を描く作品」と置き換えても、まだよく分かりにくいことです。そんなの簡単だよ、という大学一年生も居るとは思うのですが、私がいくら丁寧に説明しても理解できない人も、たくさんいる筈です。だって、イボ族の過去を描く作品と言われても、全然ピンとこないのが普通じゃないですか。

 

 

 

「現代人の教養」を未だ身につけていない大学一年生の多くは、おそらくここで頭の回転がフリーズしてしまうのではないかと危惧します。「イボ族の過去を描く」とは、いったいどう言うことなの?19世紀末から20世紀初めくらいにアフリカで冒険家や人類学者によって撮影された、白黒の古いドキュメンタリー映画みたいなこと???と言った疑問に包まれているかもしれません。

 

 

しかし、この英文全体の主題は、ノリウッドというナイジェリア映画なのです。ですから、イボ人の過去を描いている作品というのは、白人の「人類学者」や探検家の記録映画ではありません。端的に言えば、下の白黒写真のようなイメージでは全然ありません

 

 

IMG_1186

 

(写真は、20世紀前半に撮影された記録動画から)

 

 

 

 

 

普通に完がることができれば、Session 13-14で論じられているのはナイジェリアの国際的映画Nollywoodなのですから、この文章のrepresentationsとは、ノリウッドの映画作品ということになります。そして、その映画がイボ人の過去を描いているのですから、要するに、下の写真のようなイメージです。要するに、イボ人の描いた時代劇映画のことです。

 

the king

(Nollywoodの2023年の映画The Kingの宣伝写真から)

 

 

 

 

日本人は、例えば、「水戸黄門」やら「暴れん坊将軍」のような時代劇で江戸時代という過去を描きました。同様に、ナイジェリアのイボ人たちは、自分たちの作品で過去をどのように描いているのか。“As representations of the Igbo past“ という言葉が示しているのは、そういった話題なのです。

 

 

しかし、古い「常識」に囚われている人は、この話題についてこれません。「アフリカのイボ族の文化って、文化人類学者が調査・研究するものでしょ?」と思い込んでいるので、「時代劇」の意味を理解しようとはしません。「我々」は「観察者」であり、「イボ族」は「観察されるだけの」「土人」であるという枠組みから自由になれないのです。

 

 

Session13では、ノリウッドの映画がオンライン有料番組の力を借りながら、アフリカだけでなく、アメリカ等にもファンを広げていると記述してあったのですが、その意味することが、頭の中に入ってこなかった人たちです。イボ人が文化生産者になって、我々や世界の人々が彼らの作品を消費している側になっている現実を、十分に咀嚼できないでいる、ということでもあります。

 

 

 

逆に言えば、冒頭のrepresentationがが突きつけているのは、文化のグローバル化時代の新しい教養を身につけろ、ということなのです。それも、注釈が少なく、ほとんど生の英語を通して、教室で議論しながら理解せよ、です。東大生に対する試練は、本当に厳しいように思われます。

 

 

 

続きは、近日中にアップします。

 

 

 

 

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2024/05/15

東大英語リーディングへの道ーーNollywoodを読む

『東大英語リーディング』への道ーー “Nollywood”を読む

 

目次

0)はじめにーー『東大英語リーディング』は通過儀礼だーーー今回の記事

 

1)”Nollywood”の何がそんなに難しいか

 

抽象語(hegemony, illegitimacy, representationなど)がどんな具体的現実を示唆しているのか分かり難い

従来の「常識」を覆す議論がさりげなく出てくる(Igbo society is direct democracy in action, republicanism and village democracy as political forms)

客観的な事実の羅列からなる歴史記述ではない

 

 

2)どのような武器で読んでいくのか

 

①固有名詞について整理する(民族・人物一覧、年表、地図作りなど)


②大辞典と物書堂の辞書アプリを活用する

 

百科事典、Wikipedia 、YouTube、ネット検索等を活用し、背景となる知識イメージや関連文献を調べる

 

生成AIを活用するーー概要、語彙、和訳、キーワードについての質問する

 

 

 

 

0)はじめにーー『東大英語リーディング』は通過儀礼だ

今回論じることになる東大英語とは、東大に合格するための英語という意味ではなく、東大合格後に一人ひとりの東大生に求められる英語である。

 

 

ここでは東大駒場の1、2年生の共通テキストである、東大教養学部英語部会(編)『東大英語リーディングーー多元化する世界を英語で読む』(東大出版、2022年)を考察することにする。その中でもSession 13-14 の“Nollywood“というナイジェリア映画論の文章を取り上げ、それがどのように難しいのか、そして読解するにあたって、大学新入生はどのような武器を駆使しながら挑戦したら良いのかを論じたい。

まず最初に、この「はじめに」では、このテキスト『東大英語リーディング』がどのように難しいのか、簡単に説明しておこう。Amazonの読者レビューを読むと、英語多読の入門書だと考える人がいるようだが、ちょっと的外れだろう。実際のところ、いわゆる「多読」にぴったりの、読みやすい英文集ではないだろう。TOEIC対策どころか、よりアカデミックな英文だと言われるTOEFLよりも、さらに難しいとも言えるかもしれない。何しろPreface にも、大辞典を駆使して読みなさいと書いてあるのだ。

実際、大学新入生(東大1年生)に対し、高校までの素朴な世界観を大きく越え、より高いレベルでの認識へと飛躍しなさい、ジャンプしなさいと、強く要求しているように見える。東大が東大生に求めているのは、抽象的で専門的な英語文献を読むための準備作業なのだが、そのためには真の東大生になるためには、知と学問の世界へのバンジージャンプという「通過儀礼」を体験しなければならないようだ。
ところで、かつての日本では教養主義というものがありました。今となっては大昔でしょうが、昔には旧制高校(現在の主要国立大学の教養課程。例えば、東大駒場の敷地はかつては旧制一高だった)というものがあり、将来のエリートとして嘱望されていた旧制高校生たちは、今までの簡単なお勉強を乗り越えようと、デカンショと呼ばれる超絶な哲学書などを読もうとしたという。デカンショとは、デカルト、カント、ショーペンハウエルという西欧の哲学者の頭文字を取ったものだ。彼らの著した難解な書物、あるいは、日本人でいえば和辻哲郎や倉田百三等に挑戦すべしというのが、教養主義である。

 

 

戦後の昭和になっても、教養主義の伝統は続いた。大学生たちは岩波文庫を買い、デカンショはもちろん、西田幾多郎、丸山眞男、マルクス、ドフトエフスキーなどを読んだらしい。

 

 

昭和の後期になると、いわゆる教養主義はほとんどなくなっていたが、それでもその残骸くらいは残っていた。実は私だって、大学生になると、サルトルの『存在と無』やカントの『純粋理性批判』のさわりに触れたのである。

 

 

これらは実に難解きわまるもので、サルトル『存在と無』の冒頭では、「即自存在とは『在るところのもの』であり『無いところのものでは無い』」、他方、「対自存在とは『在るところのものではない』『無いところのものである』」という議論から始まる。普通の大学一年生からすれば、ちんぷんかんぷんで、一人で読み進めることはほとんど絶望的である。しかし、先輩や先生の手ほどきを頼りに、次第に少しは読み進められるようになる。

 

 

ちょっと具体的に言えば、即自存在・対自存在とはヘーゲル弁証法に由来する概念であること、そして大雑把に言えば、即自存在とは未だ自己意識に目覚めていない素朴な段階であり、対自存在とは他者に触れ自己意識に目覚めた段階だ。先輩たちから、そのようなイメージを与えられると、それを手がかりに、難解な本に挑戦しようという気になったという訳です。

他大学はいざ知らず、教養主義は東大では、形を大きく変えてはいますが、その精神は消えていません。要するに、東大教養学部英語部会と『東大英語リーディング』が東大1年生に求めているのは、「大学生になったのだから、今までのような安易な姿勢は通用しないことを理解せよ、そして、現代の『教養』を身に付けられるような本格的な英文を読んでもみろ」なのです。だから、敢えて少々読みにくい英文が集められている。

そんな訳ですから、このテキストの読解は決して楽に読めたりはしない。おそらく帰国子女にとっても簡単だとは限らないでしょう。しかし、悪戦苦闘しながら奮闘すれば、「教養」あるいは「教養英語」へと一歩進めることが出来る、そんなテキストなのです。

 

 

 

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2024/04/10

2024年東大英語の要約問題[3]ーー反語とオチを見落とすな

2024年東大英語の要約問題 [3]ーー反語とオチを見落とすな、プロパガンダと民主主義の関係は?

 

 

 

今年(2024年)の東大英語の要約問題について、2回にわたってブログ記事を書いてきた。「2024年東大英語要約[1]問題と解答 」と、「2024年東大英語要約[2]ーー2つの解釈の可能性」である。しかし、どうもまだ書き足りない。そこで、あと一回、ちょっと長めの注釈をつけ加えることにする。なお、今回のブログ記事は、これら2回の記事が半ば前提となっている。

 

 

 

例の英文解釈には争点がある

 

 

2024年の要約問題についてネットでいろいろと検索して調べてみると、「簡単だよ」みたいな意見がちらほら見つかる。しかし、そんなことは絶対にない。実際、様々な「模範解答」の要約文を読んでみる限り、異なる二つの見解に分裂している。どちらの見解がより正しいのか、最終的な決着をつけられるのか否かは不明だが、この争点に取り組んでみる必要がある。(なお、東大の解答は、ある程度様々な解釈を許容していると想像している)。

 

 

 

とくに注目すべきは、以下の第四パラグラフである。

 

 

Bernays’s Propaganda opens by pointing out that the conscious manipulation of the organized habits and opinions of the masses is the central feature of a democratic society. He said: we have the means to carry this out, and we must do this. First of all, it’s the essential feature of democracy. But also (as a footnote) it’s the way to maintain power structures, and authority structures, and wealth, and so on, roughly the way it is.

 

 

 

私がつけたアンダーラインの箇所に注目してもらいたい。ほとんど同じような内容の文と語句が二度、つまり、”Propaganda is the central feature of democracy”だと書かれてある。Bernaysが、その著書で主張している言葉だ。日本語に意訳すれば、「プロパガンダ(=大衆の思考操作)は、民主主義社会にとって、絶対に欠かせぬものだ」となるだろう。

 

 

これらの文が大事なことは、疑う余地がない。しかし、その解釈はとても厄介だ。理由は二つある。

 

 

一つは、この命題は Bernays の著書の主張なのだが、作者の見解を代弁しているのか、そうでないのか、必ずしも明瞭ではないのである。我々はどちらの立場に立つのかを明らかにしなくてはならない。

 

 

もう一つは、民主主義という近現代では正(プラス)の概念を表す概念が、プロパガンダという負(マイナス)の概念と並べられ、結び付けられていることに由来する。民主主義によって、プロパガンダを正当化しているのか?あるいはその反対に、プロパガンダという負の概念によって、民主主義の否定的側面や欺瞞などを、批判的に論じようとしているのか

 

 

読み手としては、ここで大いに悩むのは、当然ではないか? 次のようなA説 B説に分裂してくるはずだ。

 

 

 

A説 第四パラグラフの英文をそのまま受容する立場、あるいは大手予備校の模範解答

 

 

A説は、書かれてある文に対しては、ほとんど悩むことなく無批判にそのまま受け入れる立場である。

 

 

近現代人が常識的に考えるならば、大衆の思想操縦をするのが民主主義の特徴だというBernaysの議論は、少々受け入れ難い。大衆の思想操作という考え方は、いわゆる洗脳やマインド・コントロールと紙一重だ。あるいは、ジョージ・オーウェルの反ユートピア小説『1984年』の世界を想起させてしまう。そのような技術、つまり反民主主義的に思われる技術が、実は民主主義の特徴だと言われても、理解に苦しむはずだ。しかも、その命題の作成者は、書き手本人ではないのだ。

 

 

書き手が、どのようなメッセージを発しているのか、読み手がよく理解できない時、どうやって手短に要約できるのか。A説では、書かれてある文を、たとえその意味がよく理解できなくても良いから、すべてそのまま受け入れてしまいましょう、という立場である。

 

 

つまり、(1)Bernaysの見解は書き手の見解を代弁している、(2)Bernaysの命題(プロパガンダと大衆の思想操作は、民主社会には不可欠だ)を、単なる意見ではなく、事実であるとして認定して認めましょう、という立場に立っている。

 

 

ちょっと驚いたことに、大手予備校の解答速報は、この立場に立っているようである。以前のブログでも紹介したが、再度掲載しておこう。特に下線部のところに注目してもらいたい。

 

 

 

東進

米国での企業のプロパガンダは、暴力を用いない大衆心理の 操作を目標とし, これは民主社会の要と認識されていたが、 ヒトラーによる印象悪化を受けてその呼称は変えられた。 (東進、80字)

 

 

駿台

企業のプロパガンダは暴力に頼らない大衆心理の操作を目的としており、民主主義の本質的特性だ、この用語自体は第二次大戦中の悪印象のため、現在は使われていない。(78字)

 

 

 

河合塾

 

企業のプロパガンダが目指す非暴力的な大衆心理の操作は、当初は民主主義の根幹をなし社会を維持する手段とされた。だが、この語は戦時中に印象が悪化し使われなくなった。(80字)     

 

 

 

代ゼミ

 

暴力に頼らず大衆の心を操作し、民主主義体制を維持するため、戦間期に米国で生まれたプロパガンダ、今では呼称を変えて、宣伝広告などとして世界中に広まっている。(78字)

 

 

 

いずれも、Bernaysの説、つまり彼の著書『プロパンガンダ』の中の文章が、彼の意見ではなくむしろ客観的な事実であるとして、として要約文に反映している。

 

 

 

書き手はいったい何者で、どのようなメッセージを読み手に訴えかけているのか。そういうことを一才考慮せず、パラグラフごとの論点をペタペタと要約文に並べているから、Bernaysの文を事実にまつあり上げているのだろうと、私は考えている。

 

 

 

B説 Bernays説の提示は、実は反語的レトリックだ!

 

 

この立場は、民主主義のためのプロパガンダという説に、大いに違和感を持つことから出発する。

 

 

 

すると、(1)Bernaysの説は、この文の書き手の認識とは異なるのではないか。(2)「プロパガンダが民主主義の本質なのだ」という命題をそのまま受け入れているのではなく、むしろ、反語的レトリックとして用いているのではないか、と考える。反語というのは、Bernaysの命題と正反対の認識を書き手は持っているからだ。

 

 

具体的に言えば、例えば、プロパガンダに支えられている民主主義があるとしたら、それは民主主義と呼ぶに価しない。あるいは、「プロパガンダが民主主義の本質なのだ」という説は、プロパガンダを正当化するために流したBernaysのデマに過ぎないと捉えてるのだ。つまり、書き手の意図を汲み取って、Bernaysの命題を批判的に捉える。

 

 

 

なぜ反語的と解釈できるの?

 

 

もしかすると、第4パラグラフに書かれてある文章を全部反語的に読めと言う見解は、かなり極端なものに思われるかもしれない。しかし、反語的レトリックだと解釈するのが、文章の流れから言っても、また書かれている内容のショッキングさから見ても、むしろ自然の流れなのである。以下、理由を説明していく。

 

 

1)全文の冒頭の文において、企業プロパガンダがアメリカの大きな問題だと提示している。そのような問題意識を持つ書き手が、Bernaysの命題を説をそのまま全面的に認めるのは、あり得ないではないか。むしろ、「そんなケシカラン理念を持っている奴がいたのだ!」と怒ったり、「そんな悲しい事実があったんだ」と悲嘆することが期待されているはずだ。

 

 

2)第五(最終)パラグラフにおいて、プロパガンダという技術はヒトラーのナチス政権においても積極的に活用されたことを確認できる。その結果、本文では、「プロパガンダのイメージが悪くなった(Its image got pretty bad)」と簡単に記述してあるだけだ。しかし、プロパガンダが民主主義と表裏一体であるかのようなBernaysの説が、全く説得力を失ってしまったと見ることも出来る。

 

 

3)Bernaysの命題は、現代人の我々の良識に著しく反する命題であり、それを教育機関でもある東大が、入試試験において、そのまま肯定的に提示するとは思えない。これは、英語試験についての内在的な議論ではない。しかし、こういうコメントも必要であろう。

 

 

4)これらの議論に加えて、もう一つ、背景的知識や教養から得られる推論や考え方を提示しておく。実を言うとこのプロパガンダ論は、ある程度、社会科学的な読書をしていれば、どんな人物が書き手なのか、想像出来てしまう。

 

 

ずばり言えば、書き手は非マルクス主義・非共産党系の左翼・リベラルの知識人であろう。つまり、ラディカル・リベラルであるとか、アナーキズムなどの思想信条の持ち主である。

 

 

なぜか。全体的なトピックは、マルクス主義の「ブルジョア民主主義」批判に近い。特にマルクス主義の「文化へゲモニー論」(グラムシ)や、「国家のイデオロギー装置」(アルチュセール)を想起させる。しかし、決してマルクス主義の言葉を用いて議論しない。あくまでも平易な言葉によって、文が綴られている。上記のことから、想像できるわけだ。

 

 

この時、書き手はおそらく大衆民主主義(Popular Democracy) の支持者であろう。他方、大衆の思想操縦を求めるBernaysの命題は、おそらくエリート主義を前提とする民主主義として浮かび上がってくる。知的エリートが大衆の意見や思考を操作・操縦しなければならなない、エリート主義的民主主義である。もちろん、大衆民主主義とエリート主義的民主主義は、政治的に対立する。

 

 

書き手が非共産党系左翼であれば、Bernaysの命題を反語的にのみ取り上げたのであろうと結論づける。噛み砕いて言えば、左翼が保守エリート主義者を褒めるはずがない、ということだ。(こんな推察力は、受験生には全然求められてはいません。念の為) 

 

 

 

反語派の2つの解釈方法

 

 

バーネイズの命題を反語的に捉えるとは、具体的にはどう言う解釈か。どうやら二つの解釈があるようだ。一つは、「プロパガンダが根幹にある民主主義はクソである」だ。もう一つは、「プロパガンダが民主主義の根幹にあるなどという命題はデマに過ぎない」だ。もう少し詳しく説明しよう。

 

 

 Bー① プロパガンダに支えられた民主主義はクソである。

 

 

この立場では、Bernaysの主張を限定的に認める。つまり、「民主主義」の存続のために、プロパガンダが有効に活用されている事実があるだろうと考える。

しかしながら、このときの「民主主義」には、人民が統治するという意味での民主主義の理念はない。民主主義の皮を被っているだけで、実質的には、エリートが大衆を内面から操っている寡頭制政治にすぎない、と考える。Berynaysの「民主主義」は、もはや尊重するに値しないのである。

 

 

なにしろ、Bernays自身も彼の著作の注釈に記しているように、プロパガンダによって、エリートが握っている権力や富の構造を、そのまま維持し保存することが出来るのである。

 

 

以上の観点から要約を試みてみよう。

 

 

 

B-①の要約文

 

プロパガンダは、特権層の利権を守るために、大衆の思考を操作する技術だ。かつては露骨に正当化されたが、ヒトラーで印象が悪くなり、現在は水面下で運用されている。(78字)

 

 

 

 

 

Bー② Bernaysの命題は、デマにすぎない

 

 

これが私が選んだ立場である。民主主義を維持するのに、プロパガンダが役立っているという奇妙な命題そのものが、彼のデマに過ぎないと解釈している

このような解釈に至ったのは、最終パラグラフで書き手が述べたことが、全体の話のオチであると考えたらからである。(B-①では、最後のオチをうまく説明できないと私は考えている。オチのない文章はつまらないではないか)

 

 

 

最後のパラグラフ(次の文)をどう解釈すべきか。

 

 

I should mention that terminology changed during the Second World War. Prior to World War II, the term propaganda was used, quite openly and freely. Its image got pretty bad during the war because of Hitler, so the term was dropped. Now there are other terms used.

 

 

 

プロパガンダは、かつては公然とあからさまに実行されていた。しかも民主主義と一体であるとまで、その正当性が謳われていた。しかし、ナチスのヒトラーが使っていると分かると、さすがにそのイメージが悪くなった。単調に平板に読んでいくとそんなことが書かれてある。

 

 

だがこんな平板な解釈では、今回の文を締めくくってもらっては、大変困るのだ。もう一度よく考えてもらいたいのだが、直前の段落では、大衆の思想の操縦というマッドサイエンティストのような反倫理的技術が取り上げられ、しかもそれが実は民主主義の特徴だと訴えられていた。ぶったまげるような命題ではないか。

 

 

第四パラグラフをまともな神経のある読み手ならば、「この書き手はいったい何を言いたいのだ!」と叫びたくなるはずだ。もしそのまま放置されたら、内的な緊張が高まってバランスが取れず、落ち着いていられないではないか。要するに、矛盾に満ちた宙ぶらりんの状態に対して、一挙にその矛盾を解消してくれるオチが求められているのだ。

 

 

ただし、一つ注釈を加えておく。「大衆の思考を操縦することが民主主義の要である」と言う命題に何の疑問も深刻な矛盾も感知しえないという人にとっては、矛盾解消だとかオチは、全く必要と感じられないということだ。したがって、以下の文は、大衆の思考を操るのが民主主義だという命題に矛盾を感じる人にとってのみ有効な議論である。

 

 

 

さて、上記の命題が深刻な矛盾であると捉える読み手にとっては、最後のプロパガンダ=ナチス・ヒトラーという事態への言及は、とても痛快なオチと映るはずだ。プロパガンダという言葉のイメージが単に悪くなっただけではないのだ。プロパガンダ=独裁政権なのだから、プロパガンダ=民主主義という表看板それ自体、ほとんどウソなのだと暴露されたのである。プロパガンダは、常識的にも想像つくことだが、民主主義の理念には何の関わりもないのだった。正体が暴露されたので、プロパガンダは以後は影に隠れて実施されるようになったのだ。

 

 

 

英文全体としては、プロパガンダが表立って公然と運用されていた時代がかつては存在し、第二次対戦後には現在のように水面下での運用が継続しているようになった経緯を語ってくれた。

 

 

以上の観点から要約文を書くと、つぎのようになる。

 

 

 

B-②の要約文

 

プロパガンダは、特権層の利益を守り、大衆の思想を操る技術だ。かつては民主主義のためと称し公然と運用したが、ヒトラーが使うと嘘がばれ、現在では水面下で実施中だ。(79字)

 

 

以上

 

 

 

 

 

後書き

正直に書くと、2024年の東大英語1(A)の要約問題について、こんなに長い文章を書く予定は全くなかった。本来の目的は、生成AIには文章の中にある反語的表現やオチを読み取る力がない、だから東大英語を適切に要約できないのだ、と書く事であったか。つまり、ChatGPTには起承転結が分からない、を継承する記事である。

 

 

ところが予想に反し、大手予備校の解答速報をはじめ、大半のオンライン上の模範解答も、文章中の反語やオチを読み落としているのだ。「民主社会の要にはプロパガンダがある」という趣旨のフレーズを要約文中に入れているので、非常にびっくりしてしまった。反語的な言語表現を全く理解していないのだ。仕方ないので、なぜ反語的なのかを長々と論じることになってしまった次第だ。

 

 

もちろん自信を持って大手予備校ダメじゃないかと書けるのは、本文では言及しなかったが、書き手がチョムスキーであることをわかっていることが分かっているからでもある。チョムスキーの政治思想をある程度知っているならば、民主主義の本質はプロパガンダだ、などと絶対に書かない。こんなのは常識であろう。だから大手予備校の解答速報は間違いだと言い切れたわけでもある。もっとも非共産党系非マルクス主義的ラディカルであることは、英文だけで十分推測できてはいた。

 

 

あともう一つ書いておきたいことがある。BernaysやChomskyについてはWebでたくさんの資料が出てきたので、機会を設けて関連する資料(BBCのドキュメンタリー映像、この英文に密接に関連している東大教授のサイトなど)について、近いうちに紹介しておきたいのだ。BBCのドキュメンタリーがとくに面白そうである。

 

 

 

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