0)はじめにーー『東大英語リーディング』は通過儀礼だ
①抽象語(hegemony, illegitimacy, representationなど)がどんな具体的現実を示唆しているのか分かり難い
②従来の「常識」を覆す議論がさりげなく出てくる(Igbo society is direct democracy in action, republicanism and village democracy as political forms)
③客観的な事実の羅列からなる歴史記述ではない
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A
◎固有名詞について整理する(民族・人物一覧表、年表、地図作りなど)
◎キーワードへの注目
B
◎紙やアプリの辞典・事典(大辞典、文法書、百科事典等)の活用
◎オンラインの辞典(Wiktionary, OneLookなど)、百科事典(wikipediaなど) 、YouTube、ネット検索等を活用し、背景となる知識イメージや関連文献を調べる
◎生成AIを活用するーー概要、語彙・登場人物・地名リストなど、キーワードの質問
これは、前回のNollywoodー何が難しいのか(1)の続きです。前回は、次の文の(A)の箇所を扱いました。
As (A)representations of the Igbo past, the most surprising feature of the cultural epics is the complete (B)occlusion of republicanism and village democracy as political forms. In the Movies, there is always an igwe surrounded by a council of elders. Kingship was not unknown among the Igbos, but generally the Igbos did not have kings and did not want them.
今回は(B)の箇所 the complete occlusion of republicanism and village democracy as political forms を読んでいきます。
<分かり難い理由>
①抽象語の意味が分かりにくい②今までの常識を覆す概念が、さりげなく提示されている
③客観的な事実の羅列からなる歴史記述ではない
まずはocclusionという単語が難しい。いくつかの辞書を調べると、「閉塞」「遮(さえぎ)ること」といった語義が英和辞典に載っています。よく分かりませんね。
こういう時は、英英辞典にあたってみるのが普通で、動詞形(occlude)を調べますと、“occlude something to cover or block something “ (Oxford Advanced Learners) とあります。残念ながら、この説明では役には立たないようです。
結局、「政体としての共和主義や村落民主主義を完全に閉め出すこと」とでも訳すしかないでしょう。しかし、具体的にどのような事態を描いているのかイメージしにくいでしょう。理解しにくいですね。しかし、実を言えば、人類学や歴史学の本にある程度親しんでいれば、書き手が何を言わんとしているのか、容易に見当つけられます。簡単に説明してみましょう。
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歴史学者・人類学者として著名なエリック・ホブズボームという学者がいたのですが、彼の提起したthe invention of tradition (「伝統の創造」と訳します。ただし、「伝統の捏造」という訳語もあったはずです)という概念が、非常に参考になります。要するに、過去には実際には無かったことであっても、大昔から伝統であるかのように、歴史を書き換えてしまうことを指します。
(なおWikipediaの説明は、invented tradition (Wikipedia) (←クリック)を参照してください。
つまり、ホブズボームの読者ならば、the complete occlusion of republicanism and village democracy as political formsという箇所を読めば、「ははーん、『伝統の創造』のような事態があるのだな、植民地以前には実際に存在していた共和主義や村落民主主義が、歴史的に、,あたかも存在しなかったことにしてしまうのだな」と解釈できます。
そして、英文の意味を言葉を補って訳してみれば、
[歴史上存在した] 共和主義や村落主義という政治形態が、
[ナリウッド映画の中では] 完全に無いことにされ、
[植民地以前の伝統的イボ社会は王国で、王様が統治していたことにされた]
[ ] の部分は私の加筆です。
となるでしょう。
さて「伝統の創造(捏造)」という視点を得たならば、23−25行目(次の頁の最初の3行)にある次の文にある、“traditional rulers“の意味も容易に理解できるはずです。“traditional rulers“もまた、「創作された(捏造された)伝統」の産物という意味だと見当がつく訳です。
Under successive structures of colonial and postcolonial governance, “traditional rulers” were certified or invented in order to play a mediating role between local communities and higher levels of government.
この部分を試訳してみると、次のようになります。
植民地時代および植民地以後の統治機構のもとでは、「伝統的統治者」が認定されたり創られたりした。彼らは、地域社会と政府上層部との媒介役(=かいらい役)を担ったのだ。
“traditional rulers”(「伝統的統治者」)のように“…”がついているのか何故かといえば、イボ人の伝統社会には、「伝統的統治者(=王様)」なるものは存在しなかったが、間接統治を企てるイギリス植民地政権の都合だとか、植民地後の新興政権の都合によって、あたかも昔から存在した由緒正しいかのような王様が創られていたからです。全然伝統的ではないのに、伝統を装っているので、“…”がついているという訳ですね
ホブズボームのような議論を聞いたこともない、普通の東大1年生には、ちょっと難しいかもしれませんね。しかし、ホブズボームを知らないだけが原因ではないでしょう。
高校生まで、歴史学習とは客観的な事実の羅列を覚えることでした。異なる解釈はあるにしても、一つひとつの概念は、しっかりとした客観性を備えていました。しかし、大学生になると、単純な客観的事実が「在る」という訳にはいかなくなります。このテキストでも、文化的次元の事実(=映画や小説の中の話)と客観的事実が複雑に絡み合ってきます。
映画の中で存在している王と王国と、歴史上存在していた政治形態とが交錯してしまいます。それを英文で書かれると、しかもアフリカの諸事情に関することですから、ほとんどの学生は容易に混乱してしまうでしょう。(ちなみに伝統的なヨルバ人社会には王は存在していたと思われます。イボ人とヨルバ人の区別が付かない大学初学者には、さらに追い討ちをかけるものとなったでしょう)。
ちょっと余談ですが、早稲田の文学部の英語の入試問題でも、同様な難しさを抱える文章が出されたことがあります。インドのカースト制度に関する文章でしたが、客観的事実として存在するカースト制というのではなく、大英帝国の植民地の統治政策の都合から、イギリス人の植民地官僚によって産み出されたカースト制という概念が主題化されていました。「インド社会にはカースト制度が在った」ではなく、イギリス人植民地官僚が「有ることしたカースト制」ですね。高校生である受験生には、たいそうな難問(奇問)だと言えましょう。
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話を再度テキストに戻しましょう。実は、さらにまた混乱を誘うであろう事柄があります。それは本書で言及されているイボ人の大作家アチェべの小説(Achebe, Things Fall Apart、翻訳は『崩れゆく絆』(光文社新訳文庫)ですが、この作品も明らかに representations of the Igbo past (イボ人の過去を描いた作品)なのですが、ここでは歴史的な客観的事実を記述するものとして引用されています。
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客観的事実と政治的文化的次元での事実がごちゃごちゃして、丁寧に整理して読まないと、読者はかなり混乱しそうですね。塾や予備校の講師であれば、客観的事実と政治的文化的事実とを色分けしましょうと提案するかもしれません。しかし、このテキストには、そういう指示はありません。また、おそらく東大の先生もそこまで親切ではない。大学一年生は、自らの手で切り開く力が求められているのです。
<分かり難い理由>
②今までの常識を覆す概念が、さりげなく提示されている
the complete occlusion of republicanism and village democracy as political formsのrepublicanism and village democracyの後半部に注目してみます。
もう一つのちょっと驚くべき話題が、さりげなく言及されていたことに、気が付いたでしょか。republicanism and village democracy、すなわち、植民地以前のアフリカに、共和主義と村落民主主義があったというのです。
従来の旧い常識では、共和主義や民主主義のような政治形態は、古代ギリシャに由来するか、近代化に伴ってもたらされるものでした。ところがこの英文によると、植民地以前のアフリカのイボ社会においても、共和主義と村落民主主義であったというのです。つまり、これまで私たちが慣れ親しんできた民主主義や共和主義とは異なる形態のそれが、前近代・前植民地時代のイボ社会に存在していたというのです。
そして、もしこの語句に読み手が驚いたりショックを受けていない人は、おそらくは英文をまともに読んでいないのだと推察されます。
この東大生向けの教科書に、もう少し詳しい注釈があればなあと、とても残念に思います。しっかりとした指導者がいる教室であれば、植民地以前のアフリカの共和主義と民主主義について、調べもの学習が始まっているかもしれませんが、ちょっと不親切です。従来の西欧中心主義的な民主主義、あるいは文明観を突き崩すラディカルな議論なのでしょうから。
ところで、人類史に対する見直しは、知的な社会人やビジネスマンにとっても、どうやら興味深い話題として取り上げられるようです。例えば、作家の村上春樹が絶賛していた知的な一般雑誌にThe New Yorker というのがあり、彼の短編作品の英訳もしばしば掲載されているのですが、このニューヨーカー誌でも、人類史が大きく取り上げられます。私自身が読んで感銘したのは次の記事です。
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Gideon Lewis-Kraus, “Early Civilizations Had It All Figured Out“, (⇐クリック)New Yorker (November 1, 2021)
そして、この記事で大きく紹介されていたのが契機で、取り寄せて読んだのが、
David Graeber & David Wengrow, The Dawn of Everything, 2022 (邦訳あり)
です。いずれもアフリカの民主主義や王権について直接触れているわけではありませんが、中央アメリカや中近東における原始的民主主義あるいは「そんなに原始的ではない」民主主義について、興味深い内容が記載されています。この大部な本について要約することは不可能ですが、民主主義が西欧の伝統であるという見解が疑問にさらされているのは明らかでしょう。
また、著者の一人David Graeberは、次のタイトルの本も邦訳で出版しております。直接的にアフリカへの言及はないかもしれませんが、なにか参考になりそうです。なにしろ、「民主主義の非西洋的起源」なのですから。(ただし、原題は日本語タイトルとは少し異なります)。
デヴィッド・グレーバー(著) 片岡大右(訳)『民主主義の非西洋起源について』(2020)
さらに調べてみますと、この英文の話題とぴったりの本が、昨年(2023年)にみすず書房から出版されていることが分かりました。なにしろ、植民地以前のイボ社会をEarly Democracy (初期民主主義)として取り上げているのですから。
デイヴィッド・スタサヴェージ『民主主義の人類史』(2023年)(←クリック)
です。原題は、David Stasavage, The Decline and Rise of Democracy: A Global History from Antiquity to Today, 2020 (⇐クリック)です。
本書の紹介文を引用します。
In the book, Stasavage argues that democracy has been more common throughout history than is often assumed, and he provides examples of democratic practices in various ancient and pre-modern societies around the world, including in Africa.
Specifically, he discusses the political systems of the Igbo people in present-day Nigeria and the Tswana people in present-day Botswana. He argues that these societies had elements of democracy, such as checks on leaders’ power and forms of popular participation in decision-making.
全訳はしませんが、簡単にまとめると、
初期デモクラシーは、古代アテネ以外にも世界中に広範に存在した。特にイボ人社会には民主主義の要素があり、権力に対するチェック・アンド・バランスがあったり、意思決定にあたって参加民主主義の仕組みがあった。
なるほどと思います。さりげない語句でしたが、こういう人類史な視野を持つ民主主義論にもつながっていたようです。『東大英語リーディング』は大変奥が深いことを実感させられます。
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今回はこれまでです。『東大英語リーディング』の読解の難しさを少しでも伝える事ができたでしょうか。次回は、Nollywoodのような難解な英文をどうやって読み解けばよいのか、その方法について考えます。
1)”Nollywood”の何がそんなに難しいかーー今回の記事(1)representations of the past をめぐって
①抽象語(hegemony, illegitimacy, representationなど)がどんな具体的現実を示唆しているのか分かり難い
②従来の「常識」を覆す議論がさりげなく出てくる(Igbo society is direct democracy in action, republicanism and village democracy as political forms)
③客観的な事実の羅列からなる歴史記述ではない
①固有名詞について整理する(民族・人物一覧、年表、地図作りなど)
②大辞典と物書堂の辞書アプリを活用する
③百科事典、Wikipedia 、YouTube、ネット検索等を活用し、背景となる知識イメージや関連文献を調べる
④生成AIを活用するーー概要、語彙、和訳、キーワードについての質問する
さて前回の記事で、東大教養過程の英語教育で求められるものが大層難しいのだぞ、ということだけはご理解していただけましたでしょうか。
東大教養学部(大学1、2年生)で用いられる文は、文理共通の教科書である『東大英語リーディング』(2022)です。ここではそのうち、Sessionn13−14のNollywood(=ナイジェリア映画論)、とりわけSession14の冒頭を、このブログでは取り上げます。これはアフリカ文学研究者Jonathan Haynes大部な書物から採られています。Session 13 では イボ人(Igbo)たちの映画制作の歴史的経緯を、イボ語映画から英語映画へと転換した過程を論じていました。そしてSession14からは、より難解な理論的記述となります。
この英文が難しい理由を予め箇条書きに列挙しますと、以下のようになります。
①抽象語がどんな具体的現実を示唆しているのか分かり難い
②従来の「常識」とは反する議論がある
③客観的な事実の羅列からなる歴史記述ではない
Session14の冒頭は、次のような英文で始まります。
As (A)representations of the Igbo past, the most surprising feature of the cultural epics is (B) the complete occlusion of republicanism and village democracy as political forms. In the Movies, there is always an igwe surrounded by a council of elders. Kingship was not unknown among the Igbos, but generally the Igbos did not have kings and did not want them. (A, Bは、私が付けたものです。なお、今回の記事は(A)のみです)。
最初に誰もが気がつくのは、ここで出てくる英文は、文法・構文・語彙のレベルでは超難解などではないということです。主語・動詞がどれだか分からないとか、辞書には全く載っていないような専門用語や俗語が続出するといったこともありません。大学受験生的に言えば、『ぽれぽれ』のように難しくはないのです。一通り訳出することは、純粋な英文解釈の教材として考えれば、むしろ容易です。
それにも関わらず、多くの大学一年生にとって、かなり厄介な英文に違いありません。要するに、訳せるかもしれないが、いったいどういう意味なのか、理解しにくいからです。ましてや多くの日本人にとって馴染みのないアフリカの話ですから、意味がとれなくなってしまいやすいのです。
一番最初の“representations of the Igbo past“から、ちょっと理解しにくいのではないでしょうか。もちろん単に訳出するだけならば、簡単かもしれません。「イボ人の過去の表象として」でも、間違ってはいない。しかし、この言葉が何を意味しているのか、訳しても意味不明でしょう。と言うのは、ちょっと前まで高校生だった新入生にとっては、”representations” =「表象」では、ピンとくるハズが無いからです。
大人ならば、「表象」という言葉にもう少し馴染みがあるかもしれません。例えば私の愛読書だった書物の翻訳タイトルはイーグルトン『表象のアイルランド』でした。これはアイルランドを描いた小説に関する文学論です。また、東大の教養学科(後期の専門課程)には、表象文化論のコースがあるたはずです。
つまり、「表象」というのは、文学、音楽、演劇、映画、漫画などの様々な芸術や文化活動を、ちょっとアカデミックに議論する時に用いる言葉です。(東大で大学生になれと言うのは、そういう高尚な議論に馴れなさいと言うことでもあるでしょう)
もちろん英和辞書などを調べるのも良いやり方です。すると、representationsには、表現、描写だとか、あるいは、絵画、彫像といった意味があることがわかります。さらに例文にも目を通すべきでしょう。有益なものを選び出すと、次の例を挙げられます。
”a realistic representation of war” 「戦争を写実的に描いた作品」『新編英和活用大辞典』
”a vivid representation of Russian life” 「ロシア人の生活の生き生きとした描写」(『ウィズダム英和辞典』)
”a representation of a bird of paradise” 『極楽町の彫像 [絵画 ]』 (『新英和大辞典』)
とすれば、”representations of the Igbo past”は、「イボ人の過去を描くこと」や「イボ人の過去を描いた作品」、あるいは、「イポ人の過去を描いた小説[または彫刻、音楽、映画]」となるはずです。しかし、それでも大半の大学一年生には、まだまだピンと来ないだろうと推測します。なぜならば、「イボ人の過去を描く作品」では、依然として抽象的だからです。
問題は、「表象」の代わりに「◎◎を描く作品」と置き換えても、まだよく分かりにくいことです。そんなの簡単だよ、という大学一年生も居るとは思うのですが、私がいくら丁寧に説明しても理解できない人も、たくさんいる筈です。だって、イボ族の過去を描く作品と言われても、全然ピンとこないのが普通じゃないですか。
「現代人の教養」を未だ身につけていない大学一年生の多くは、おそらくここで頭の回転がフリーズしてしまうのではないかと危惧します。「イボ族の過去を描く」とは、いったいどう言うことなの?19世紀末から20世紀初めくらいにアフリカで冒険家や人類学者によって撮影された、白黒の古いドキュメンタリー映画みたいなこと???と言った疑問に包まれているかもしれません。
しかし、この英文全体の主題は、ノリウッドというナイジェリア映画なのです。ですから、イボ人の過去を描いている作品というのは、白人の「人類学者」や探検家の記録映画ではありません。端的に言えば、下の白黒写真のようなイメージでは全然ありません。
(写真は、20世紀前半に撮影された記録動画から)
普通に完がることができれば、Session 13-14で論じられているのはナイジェリアの国際的映画Nollywoodなのですから、この文章のrepresentationsとは、ノリウッドの映画作品ということになります。そして、その映画がイボ人の過去を描いているのですから、要するに、下の写真のようなイメージです。要するに、イボ人の描いた時代劇映画のことです。
(Nollywoodの2023年の映画The Kingの宣伝写真から)
日本人は、例えば、「水戸黄門」やら「暴れん坊将軍」のような時代劇で江戸時代という過去を描きました。同様に、ナイジェリアのイボ人たちは、自分たちの作品で過去をどのように描いているのか。“As representations of the Igbo past“ という言葉が示しているのは、そういった話題なのです。
しかし、古い「常識」に囚われている人は、この話題についてこれません。「アフリカのイボ族の文化って、文化人類学者が調査・研究するものでしょ?」と思い込んでいるので、「時代劇」の意味を理解しようとはしません。「我々」は「観察者」であり、「イボ族」は「観察されるだけの」「土人」であるという枠組みから自由になれないのです。
Session13では、ノリウッドの映画がオンライン有料番組の力を借りながら、アフリカだけでなく、アメリカ等にもファンを広げていると記述してあったのですが、その意味することが、頭の中に入ってこなかった人たちです。イボ人が文化生産者になって、我々や世界の人々が彼らの作品を消費している側になっている現実を、十分に咀嚼できないでいる、ということでもあります。
逆に言えば、冒頭のrepresentationがが突きつけているのは、文化のグローバル化時代の新しい教養を身につけろ、ということなのです。それも、注釈が少なく、ほとんど生の英語を通して、教室で議論しながら理解せよ、です。東大生に対する試練は、本当に厳しいように思われます。
続きは、近日中にアップします。
1)”Nollywood”の何がそんなに難しいか
①抽象語(hegemony, illegitimacy, representationなど)がどんな具体的現実を示唆しているのか分かり難い
②従来の「常識」を覆す議論がさりげなく出てくる(Igbo society is direct democracy in action, republicanism and village democracy as political forms)
③客観的な事実の羅列からなる歴史記述ではない
①固有名詞について整理する(民族・人物一覧、年表、地図作りなど)
②大辞典と物書堂の辞書アプリを活用する
③百科事典、Wikipedia 、YouTube、ネット検索等を活用し、背景となる知識イメージや関連文献を調べる
④生成AIを活用するーー概要、語彙、和訳、キーワードについての質問する
今回論じることになる東大英語とは、東大に合格するための英語という意味ではなく、東大合格後に一人ひとりの東大生に求められる英語である。
ここでは東大駒場の1、2年生の共通テキストである、東大教養学部英語部会(編)『東大英語リーディングーー多元化する世界を英語で読む』(東大出版、2022年)を考察することにする。その中でもSession 13-14 の“Nollywood“というナイジェリア映画論の文章を取り上げ、それがどのように難しいのか、そして読解するにあたって、大学新入生はどのような武器を駆使しながら挑戦したら良いのかを論じたい。
まず最初に、この「はじめに」では、このテキスト『東大英語リーディング』がどのように難しいのか、簡単に説明しておこう。Amazonの読者レビューを読むと、英語多読の入門書だと考える人がいるようだが、ちょっと的外れだろう。実際のところ、いわゆる「多読」にぴったりの、読みやすい英文集ではないだろう。TOEIC対策どころか、よりアカデミックな英文だと言われるTOEFLよりも、さらに難しいとも言えるかもしれない。何しろPreface にも、大辞典を駆使して読みなさいと書いてあるのだ。
実際、大学新入生(東大1年生)に対し、高校までの素朴な世界観を大きく越え、より高いレベルでの認識へと飛躍しなさい、ジャンプしなさいと、強く要求しているように見える。東大が東大生に求めているのは、抽象的で専門的な英語文献を読むための準備作業なのだが、そのためには真の東大生になるためには、知と学問の世界へのバンジージャンプという「通過儀礼」を体験しなければならないようだ。
ところで、かつての日本では教養主義というものがありました。今となっては大昔でしょうが、昔には旧制高校(現在の主要国立大学の教養課程。例えば、東大駒場の敷地はかつては旧制一高だった)というものがあり、将来のエリートとして嘱望されていた旧制高校生たちは、今までの簡単なお勉強を乗り越えようと、デカンショと呼ばれる超絶な哲学書などを読もうとしたという。デカンショとは、デカルト、カント、ショーペンハウエルという西欧の哲学者の頭文字を取ったものだ。彼らの著した難解な書物、あるいは、日本人でいえば和辻哲郎や倉田百三等に挑戦すべしというのが、教養主義である。
戦後の昭和になっても、教養主義の伝統は続いた。大学生たちは岩波文庫を買い、デカンショはもちろん、西田幾多郎、丸山眞男、マルクス、ドフトエフスキーなどを読んだらしい。
昭和の後期になると、いわゆる教養主義はほとんどなくなっていたが、それでもその残骸くらいは残っていた。実は私だって、大学生になると、サルトルの『存在と無』やカントの『純粋理性批判』のさわりに触れたのである。
これらは実に難解きわまるもので、サルトル『存在と無』の冒頭では、「即自存在とは『在るところのもの』であり『無いところのものでは無い』」、他方、「対自存在とは『在るところのものではない』『無いところのものである』」という議論から始まる。普通の大学一年生からすれば、ちんぷんかんぷんで、一人で読み進めることはほとんど絶望的である。しかし、先輩や先生の手ほどきを頼りに、次第に少しは読み進められるようになる。
ちょっと具体的に言えば、即自存在・対自存在とはヘーゲル弁証法に由来する概念であること、そして大雑把に言えば、即自存在とは未だ自己意識に目覚めていない素朴な段階であり、対自存在とは他者に触れ自己意識に目覚めた段階だ。先輩たちから、そのようなイメージを与えられると、それを手がかりに、難解な本に挑戦しようという気になったという訳です。
他大学はいざ知らず、教養主義は東大では、形を大きく変えてはいますが、その精神は消えていません。要するに、東大教養学部英語部会と『東大英語リーディング』が東大1年生に求めているのは、「大学生になったのだから、今までのような安易な姿勢は通用しないことを理解せよ、そして、現代の『教養』を身に付けられるような本格的な英文を読んでもみろ」なのです。だから、敢えて少々読みにくい英文が集められている。
そんな訳ですから、このテキストの読解は決して楽に読めたりはしない。おそらく帰国子女にとっても簡単だとは限らないでしょう。しかし、悪戦苦闘しながら奮闘すれば、「教養」あるいは「教養英語」へと一歩進めることが出来る、そんなテキストなのです。