大学受験をするにあたって、多くの受験生が河合塾や駿台の模試を受けていると思います。そしてその結果に一喜一憂しながら過ごしているのだと思います。しかし、模試の判定はあくまでも参考程度に受け止める必要があります。必要以上に信じないということです。
巷では「A判定でも落ちる」「D判定でも受かる」という言説がありますが、それは実際によくあることです。当塾の生徒さんや個人的な知り合いの中にも該当する人はいますし、毎年国立大学合格発表後のX(旧Twitter)上には、「冠模試含めて全部A判定だったのに東大落ちた」といったような投稿が散見されます。
ではなぜそんなことが起きるのかといいますと、模試の採点がいい加減だからです。特に顕著なのは、現代文と英語(の記述)です。(模試の採点者を批判しているわけではありません。)
模試の採点は誰がやっているかといいますと、アルバイトです。勿論採用試験を通過した一定レベルの学力のある人がやっていることは確かです。しかし、中には現役の大学生もいるでしょうし、片手間でお小遣い稼ぎとしてやっている人も多いでしょう。
ここで問題なのは、例えば駿台全国模試レベルの記述問題であればかなり難問ですので、一人一人の答案をアルバイトが丁寧に採点することなどほぼ不可能です。まして、東大実戦模試となれば尚更です。
例えば、現代文のたった一問に対する記述の答案だけでも、本当に十人十色、色々な答案を書いてきます。その答案を一つ一つ丁寧に読んで、どこまで問いに対してきちんと答えているかを判断するなど、到底不可能です。勿論数人の答案を採点するならできるかもしれません。しかし、少なくとも仕事としてやる以上最低でも100人分の答案はみなければならないわけで、100人分の答案の一問一問をアルバイトの立場でそんなに丁寧に採点することができると思いますか?
模試の採点には採点基準なるものが提示されていますので、採点者はその基準に沿って採点していきます。例えば、「〇〇という言葉が書かれていれば〇点」といったような具合です。しかし、採点基準に挙げられている言葉を使っていなくても、本文の内容をしっかり理解し問いに対してある程度的確に答えられている答案だってあるはずです。(往々にしてよくできる人ほど自分の言葉で答案を書くので、採点基準にない言葉を使う可能性は大です。)
しかし、採点者はあくまでも採点基準に照らして採点をしていきます。そこに挙げられている基準以外の表現の場合、それが正しいか否か一人一人丁寧に吟味するには膨大なエネルギーと時間が必要ですし、自信をもって判断できる人は少ないので、必然的に採点基準に従うしかないわけです。
そうするとどんなことが起きるかと言いますと、実力があり、かなり正解に近い解答が書けていたとしても、意外と点数が伸びない、とか、実力はなくても高得点、ということが起こり得ます。
例えば、今年東大理科二類に合格したNさんの場合、第二回東大実戦模試の国語の成績は現代文12/40、古文0/20、漢文4/20、合計16/80しかとれず、偏差値41でしたが、本番の東大受験の開示では国語は47/80、つまりほぼ6割取れていました。
一方でネット上で見たある東大受験生(不合格)の話ですが、冠模試の国語の点数が大体50点前後(理系・80点満点)あったのに、本番の開示では20点ほどしかとれていなくて驚いた、やっぱり模試はあてにできない、といったような投稿がありました。
問題が違うというのも勿論ありますが、実際の東大の問題はよく練られた良問であること、採点者が、問いに対して的確に答えられているかどうかを非常に丁寧にしっかりと見てくれる。よって実力が反映される点数となる、ということだと思っています。
つまり、模試と本番の点数では、国語や英語の記述だけでも10点や20点は簡単に変わりうるし、それによって順位の100番や200番は簡単に入れ替わる。結果、D判定でも受かるしA判定でも落ちる、というのは当たり前のことなのです。
ではどうしたらよいか、といいますと、やはり信頼のおける指導者に〇〇大学合格のための実力がしっかりと備わっているかどうかをきちんと見極めてもらうということが必要となってきます。
例えば、その判定がたまたまとれたA判定なのか、実力の伴っているD判定なのか。たまたまとれたA判定よりも実力の伴ったD判定の方が強いのは当たり前。また、合格判定よりも順位を見る。自分の位置がその大学の合格定員ギリギリか悪くても200番くらいビハインドという位置にいるのかどうか。そのあたりであれば、D判定でも全く気にする必要はない。模試の採点は当てになりませんから、適当な採点でその位置ということは、本番ではもっと点が伸びるという可能性十分はあります。
※但し、その判断というのは、個々の受験生の状況を細かくみてみないとなんとも言えません。模試の判定が適切な人もいるかもしれないし、全く外れているという場合もあります。一般論では語れないということを強調して今日はここで終わりにします。