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2017/05/25

東大・早稲田・慶應 一流大学の英語を読みきる力

何度も書きますが英語の勉強も順調に進んでいくと、最終的には英文を読んでいくという勉強を重ねていきます。親御様の多くも経験していることのはずですが、自分が中高生時代にどんな内容の話を英文で読んでいたかなんて、記憶にある方の方が珍しいのではないでしょうか。それはなぜか?恐らくですが、多くの人がやっつけ仕事でしか英文を読んでいない、内容を吟味したり自分の身に置き換えたりしながら、立体的にその英文を立ち上げて読むということをしていなかったからだろうと想像しています。

 

実は、過去の上智大学の英語の試験問題に、英語教科書プログレスに掲載されている英文=話題がそのまま出ていたことがあります。「え??まんまじゃん!」と私は驚いたのですが、プログレスでその話を確実に読んでいたはずの私の教え子は、その話を全く覚えていなかったという事実があります(笑)。まあ、多くの人がそういうものなのかな、と思っています。文章=言葉が表現している‟世界”に興味がないということなんでしょうね。

 

例えば私自身は生徒の皆さんと英文を読み進めている時、苦行の時もあるのですが(笑)、実は結構楽しいなと思う面ももちろんあるのです。それは、英語を通して様々なストーリーや世界観、思想に触れることが出来るからです。つまり、何を読んでも何度同じ話を読んでも、「読むこと自体が楽しい」のです。生徒の皆さんも私どものような塾に通いながら、こういう境地になれたらもう、鬼に金棒!なんですけどね…。

 

手前味噌でお恥ずかしいですが、私が今でも文章を読むことを楽しめているのは、中学時代の読書活動に大きな原点があるような気がします。そんな経験を今日は書いてみようと思います。

 

私が本を自分で読むようになったのは、小学校入学の頃からだったと記憶しています。恐らく担任の先生に図書室に連れていかれ、「みなさ~ん、しっかり本を借りて読みましょうー」なーんて言われたことが始まりだったのだろうと思いますが、かといって何を読んでよいのかわからず、伝記シリーズをしばらく読み進めていたように記憶しています。特に『野口英世』という人の生涯は、小さな私にとってとてもインパクトのあるものでした。なんか、頑張って生きなきゃいけない、と子ども心に思った記憶があります。その後、『世界名作シリーズ』みたいなのを続けて読んでいたように思います、定番ですけど、ビクトル・ユーゴーの『ああ無情』とか、ね。

 

一方、家の本棚にある大人が読む本の背表紙をいつも無意識に目にしていたところから、ある日『自伝 田中角栄』という題名に興味を惹かれ読んだ記憶もあります。当時、ニュースを漠然と見ていてなんとなく子ども心にも、「田中角栄はワルイ人」というイメージを持っていたのですが、その本を読むと田中角栄という人が非常にヨイ人に描かれていて「え?どういうこと??」と戸惑ったことを今でもはっきりと覚えています。「自伝」ということの意味を知らなかったり、物事や人を判断する目がとても直線的で単純なおバカさんだったんですね(笑)

 

中学に入った時に、新任の国語の先生(女性)が、クラスの全員に日記を書くという課題を出され、文章を書くことが比較的好きだった私は、クラスの誰よりも熱心にほとんど毎日日記を書いて先生に提出していました。毎日やり取りをする中で、先生がいろいろな本を勧めてくださり、勧められるままにどんどん読んでいきました。

 

なかでも、太宰治の世界観には幸か不幸かボッチャーンと浸かってしまいました。『グッドバイ』『人間失格』『晩年』『斜陽』etc…新潮文庫でほとんどの作品を買い集めて読み漁りましたが、なんだか生きていくのがかったるいような、退廃的な感じになっていく自分を感じながら、一方でそういう自分を楽しんでいる、おませな中学生でした。それから、夏目漱石、三島由紀夫、水上勉、中原中也、etc…。三島由紀夫は当時あんまりよくわからなかったような記憶もありますが、とにかく三島由紀夫のあの格調高い文体の世界に浸るだけでとても満たされました。あとは、倉田百三の『親鸞』『出家とその弟子』なんかも読んだなあ。あ、そうそう、中勘助の『銀の匙』とか。

 

海外もので読んで今でも強く印象に残っているのは、ジュール・ルナールの『にんじん』、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』。

 

当時読んでいた文庫本の多くが古ぼけた姿で今でも私の書棚に鎮座しています。

 

残念ながら、当時学校の図書室に例の先生が入れてくださった本で、今手元にはないのですが、私の記憶にはっきりと刻まれている本が2冊あります。

 

1冊目は、岡真史著『ぼくは12歳』。これは、中学1年生の夏休み直前に自ら命を絶った少年、岡真史君が残した詩や手記をご両親がまとめた本です。手元に本はなくても私の心にしっかりと刻まれている言葉(詩)があります。それは確か、「ぼくは死なない」というタイトルの詩だったような気がするのですが、

 

ぼくは 死なない

ぼくは ぜったいに死なない

なぜなら ぼくは ぼく自身だから

 

という一遍です。この言葉を残して彼は大空に飛び立った。この詩の意味。一体どういう心境で書いたのだろうか、どういう意味なのだろうか、いまだにわかりません。これから僕は大空に舞うけれど、肉体は死んでもぼく自身が本当に死ぬことはないのだ、という意味なんだろうか、それとも、物理的に、本当に「僕は死なない」という意志の表明だったんだろうか?仮に意志の表明であるとするならば、今にも闇の中に吸い込まれてしまいそうな自分を感じながら必死でそれに抵抗している言葉なのか、それとも、もっとシンプルに、本当に、自分は絶対に死なない、頑張るんだ、生きてゆくんだ!という前向きな意志表明だったんだろうか?

 

もう一冊は、この岡真史君の御父上である高史明(コ・サミョン)氏が書かれた『生きることの意味』という本―在日朝鮮人として生まれた作者の自叙伝―です。

確か本の最後にあった言葉だと記憶しているのですが、

 

「私の生きることの意味の探究は人の優しさを探究することであった。」

 

といったような一節。この短い一節を読んだ瞬間に、たまらなく哀しくて淋しい気持ちになったことをよく覚えています。この短い一文に、著者の過酷な日々と淋しさ、辛さが凝縮しているような気がしました。絶望せず、必死にもがきながら生きた人の、真実の言葉だということがわかります。いまも、ものすごく突き刺さっています。

 

おっと、話がウェットになってきましたね。皆さんが好みそうな現実的な話に戻しましょう(笑)。中学生の頃から、日常的に純文学を中心に読んでいた私にとって現代国語の‟勉強”というのは中高を通してほとんど不要でした。この言葉の意味することはどういうことだろう?とか、なんでこの人はこんなことを言うのだろう?と毎日のようにいろいろと考えながら読んでいるわけですから、試験でどんな文章が出てきても、精神的に全く動じることはなかったような記憶があります。国語を‟勉強する”、ということに強い違和感を感じてもいました。

 

もちろん、そうなることを目的として本を読んでいたわけではなく、結果としてそうなっていた、というところがポイントかなと思います。また、本をよく読んでいるからといってそれが必ずしも国語の成績に直結するとは限らないという現実も、人によってはあるようです。ただ、英語を教える立場から言えば、やはり(エンタメ小説やラノベではない)読書を楽しめるくらいの人でないと、一流大学の膨大な量の英語を読みきるのはなかなかきついだろう、ということは言えます。

 

 

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シリウス英語個別指導塾 by 東大式個別ゼミ
中高一貫校専門 大学受験英語塾 英検
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2017/04/10

国語力が英語の伸びしろを左右する!

前回、東大合格レベルの英語力で良いならば、集中して3〜4年程度.慶應の経済学部ならば2〜3年程度で間に合いますよ、みたいなことを書きました。こういう文章を読むと、他の人よりも早期に、たとえば小学校低学年くらいから英語の勉強を始めれば、ウチの子でも東大や慶應に手が届くのではないか、と思われる方も出てくるかもしれません。しかし、もちろんそれほど甘いものではありません。

マジメにコツコツと勉強する姿勢は、語学学習には確かに有益です。しかし、時間をかければ着実に英語力が伸び、誰でも一流大学に合格できる英語力がつく、というわけではないのです。というのは、どこかで壁にぶつかり、足踏み状態が続き、ついには挫折してしまうのが、むしろ普通だからです。

 

さて、皆さんが一番知りたいと思うのは、東大、一橋大学、慶應大学などのような一流大学に合格するためには、どのような障壁があるか、そしてどのような対策を立てたら良いのかだと思います。今回は、とくに国立の文系難関大学や慶應(文系)を念頭に置きながら書いてみます。

 

端的に言って、英語力の伸びを左右するのは、やはり国語力です。国語力がないのに、英語だけを勉強しても、入試に出てくるような難解な英文を読めて(聴けて)解ける(書ける)ようにはならないのです。英語を先走って勉強しても、国語ができないようでは、停滞して伸び悩むはずです。当たり前のことですが、日本語で読めない文章は英語で読めるはずがないのです。

 

さて国語力は、普通、言語の「形式技術」の側面(=言語力)と「内容」の側面(=背景知識、語彙、思想や倫理)の二つから成り立っています。国語力の「形式技術」側面と「内容」側面というのは、教科書「で」教えるのか、それとも、教科書「を」教えるのかという議論にも対応しています。この二つのどちらを重視すべきかということで時には議論にもなったりします。結論的に言えば、受験英語力の向上のためには、国語の「形式」「内容」の両側面について、しっかりと学ぶ必要があります。どちらか一方という訳ではありません。教科書「で」学び、かつ、教科書「を」学ぶ必要があるというわけです。

 

国語の「形式」を重視しているもので代表的な参考書には、たとえば、出口汪の『論理エンジン』のシリーズがあげられるでしょう。出口のいう「論理」は、言語の「形式」にほぼ対応しています。当塾でも、国語の「形式」面でやや弱い中学生に対しては、このシリーズを薦める場合があります。(当塾では、大学受験英語について、とくに出口の参考書を推奨している訳ではありません)。

 

他方、「内容」重視の国語の参考書といえば、とくに「語彙」の本をあげることができます。代表的な参考書としては、以前、旧ブログでいくつかレビューしましたが、『ことばは力だ!』『読解を深める現代文単語』『現代文キーワード読解』等々。

 

誤解なきように付け加えますが、語彙を増やすというのは、漢字やことわざの知識を増やすといった、丸暗記的に対応できる作業ではなく、むしろ、現代を論じるための様々なテーマに通ずるようになるということを意味します。たとえば、「脱グローバル化」「世俗化」「原理主義」「移民排斥」「ポピュリズム」「識字率」「還元主義と全体主義」といった概念に親しむということです。こういった言葉は、現代日本語や現代英語を読むときに、しばしば求められているのです。

 

 

さて、「形式」の学習については、よい参考書だとか予備校等におられる優秀な教師に任せるとして、「内容」については、語彙強化本のみに頼るのは少々心許ない。したがって、シリウス英語個別指導塾は、英語塾ではありますが、通塾されている生徒さんには、日本語の『朝日中高生新聞』や『読売中高生新聞』の購読から始めることを強く薦めています。「内容」面を強化するには、日頃から新聞や新書本を読むのが、最強かつ最善の対策だからです。もちろん、現代英文の読解に非常に役立ちますし、受験対策に効果的でもあります。

 

 

なお、「内容」といっても、大学や学部によって求めるものは異なります。とくに一部の私大の場合、専攻する学問分野について、ある程度の知識が求められることが多いようです。たとえば、慶應大学の場合、社会科学系学部(経済学部、商学部など)であれば社会科学的な知識、文学部であれば人文科学や哲学的な素養が求められています。とはいっても、Wall Street JournalNew York Timesなどの英字新聞を読む必要は全くありません。知的好奇心がある高校生として、自分が将来的に専攻したいと思う分野について、日本語の新聞・雑誌・新書に目を通したり、日本語のテレビの特集番組を見たりする程度と考えてもらって結構です。

 

こんなことばかり言っても分かりにくいので、新聞ならばどのような記事を読めば良いのか、具体例を示しておきましょう。今回は、読売新聞の文化欄の例をとりあげます。(読売新聞は文化欄があまり多くないので、当塾としてはあまり推奨していません。しかし、読売にも文化欄はもちろん存在します)。

 

2017年の3月27日付の読売新聞には「思潮」という特集がありました。最近話題になった日本や英米の論文や記事を、分かり易く簡潔にまとめた紙面です。読売新聞に電話で問い合わせしたところ、一ヶ月に一回ほど朝刊に掲載されているようです。

 

読売新聞 思潮_3 読売新聞 思潮_4 読売新聞 思潮_2

 

「思潮」で取り上げられていた雑誌は、日本語の雑誌からは『Voice』『世界』『中央公論』『潮』などの著名な月刊誌です。英語の新聞雑誌等からはWashington Post, Foreign Policy, Reuter, Financial Times, Politicoなど、有名新聞、雑誌、通信社の記事です。

 

 

写真をアップしておきますから、宜しければちょっと読んでみてください。将来、政治学(東大や慶応でいえば法学部、一橋大学には政治学はありませんが全学部)あるいは社会学や教育学(東大でいえば文学部や教育学部、一橋大学ならば社会学部、慶応ならば文学部)などの社会科学を専攻したい高校生にとっては、興味深い文章だったと思います。非常に平易な言葉で、誰でも分かり易いように書かれているのがわかりますね。

 

 

2017年の4月9日付の文化欄で「空想書店」というのがあり、文学や歴史、あるいは人類学や世界の諸文化に興味がある人には大変興味深い小説などの紹介がありました。これも写真をアップしておきますね。
空想書店

 

 

 

ちょっと前の本になりますが『テヘランでロリータを読む』なんて本にも言及があります。余談ですが、先日、新百合ヶ丘のブックオフで、『アフガニスタンの本屋から』という英語の本をみつけたばかりなので、私はなにかいい巡り合わせを感じたのでした。

 

もっとも多くの人にとっては、この記事はやや文学や小説に偏りすぎとお感じになったかもしれませんね。しかし、知らない世界を広く深く認識する通路の一つとして、海外の(あるいは日本の)小説を読むという方法論があるんのだよと強調しておきたいのです。小説とは読んで楽しむ娯楽というだけではなく、世界と己を知るツールにもなるものなのです。

 

 

 

最後にまとめて繰り返しておきます。一流大学に合格するためには、現代の英文を読めねばなりませんが、そのためには、国語力(日本語力)を鍛えて、日本語の読書力をつける必要があるのです。英語のお勉強だけではダメですから、その点どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

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2017/03/30

シリウス英語個別指導塾と集団式予備校、どこが違うか?Part2

多くの予備校では、「文法基礎コース」だとか「英文読解コース」といったように、目的別に講義をとって授業を受けていくというスタイルのようです。文法を勉強したければ文法コース、長文読解が弱いからそこを強めたいと思えば読解コース、といったように自分の目的に合わせて講義を選択していくシステムのようです。

 

 

 

しかし、1:1のマンツーマンで英語を教えていると、文法力が(ある程度)あるからといって長文が 文法的に読めるわけではない、また、問題の答えが合っているからといって、なぜその答えになるかという理由を説明できるわけでも、長文を正確に理解できているわけでもない、ということが本当によくわかります。

 

 

英語長文を深く正確に読み、自分が理解できているということを相手に伝えるためには、単語力、文法力、構文力、そして教養力と言語能力を統合した力が必要なのです。

 

 

我々の個別指導においては、文法学習が一通り終わったら長文読解演習に入りますが、そこでどんな勉強をするか、簡単にご説明しておきましょう。

 

 

まず、英語長文を正確に読めるようにするためには、確固たる文法力は大前提です。しかし、何度も書きますが、文法問題が解けるだけでは、長文読解にそれが活かされることはあまりありません。文法はあんなにできるのに、長文を読み始めると、途端に文法的なことを全く無視して、自分で勝手にお話を作り出す、なんてことはよくあります。

 

 

ですから、英語長文を読みながら再度、長文の中で、今まで学習した文法が実際にどのように使われているかを意識させていきます。しかし、文法的なこと、構文的なことが理解できたからといって、その英文の意味を本当に理解できるとは限りません。そのため、それは一体どういうことか、なるべく自分の言葉で説明できるように求めます。(国立大学で求められる力です。)

 

 

 

例えば、生徒の皆さんに長文を読ませていると、間違った文法的解釈で英文を訳すことがあります。しかし、それを単に、「その解釈は間違っていますよ、正しくはこうですよ。」と教えてしまうことはあまりしません。たとえ間違っていても、その解釈はその子の仮説です。自分でそうだ!と思ったわけですから、その解釈=仮説に従って読み進めていけばよいのです。それでなんの矛盾もなく、また、自分で訳したその文章で自分が納得できる、意味が分かる、ということであれば、その仮説は正しかったということになりますし、「え?どういう意味???」となるのであれば、その仮説が間違っていたということになります。その時、他にどんな可能性があるかな?ということで別の仮説を立てて検証していく。この過程が非常に大事なのです。

 

 

 

こういった方法論は、集団式講義で実践することは不可能です。講師が丁寧に板書しながら説明を尽くすか、せいぜい誰か一人をあてて答えさせるだけでしょう。しかし残念なことに、他人の説明を聞いただけではなかなか「自分が」「本当に」できるようにはならないのもまた事実です。(わかったつもりになっているだけです。)また、個別指導塾ならどこでもこういった指導がなされているというわけでも決してないでしょう。

 

 

力のあるプロ講師との1:1の質疑応答=対話的授業を通して「自分の頭と口(言葉)をフルに使って、ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返す」、そうこうしているうちに、本当にできるようになるのです。

 

 

【まとめ】

 

1.本当に英語を理解して読めるようにするためには、自分の力で試行錯誤しながら考える必要があります。誰かに教えられて習得できるものではないのです。

 

2.シリウス英語個別指導塾 by 東大式個別ゼミの個別指導というのは、プロ講師との1:1の質疑応答対話を通して学習者の試行錯誤をサポートしたり促していきます。

 

3.上記の結果として、英語を、「自分の力で、深く正確に読み解いていく揺るぎない本物の力」が身につきます。

 

 

 

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2017/03/09

シリウス英語個別指導塾 と 集団式予備校、どこが違うか。

 

 

私ども「シリウス英語個別指導塾 by 東大式個別ゼミ」と一般的な集団式予備校のどこが違うか、ということを思いつくままにまとめていきたいと思います。

 

 

 

疑問1  「説明がうまい先生」がよい指導者か?

 

 

当然ですが、集団式の予備校は、一人の先生が多くの生徒たちに向かって講義をします。それは文法の説明であったり、英文の構造や文の意味の説明であったりするでしょう。そして、ベテランで説明がうまい先生ほど、「なるほど、うんうん納得!」と、聞いている側にすっと入ってくるような言葉を投げかけながら生徒たちの理解を促していくのだろうと思います。

 

 

 

しかし、それが本当に生徒たちの真の血(知)となり肉となっているのかということについて、私どもは少々疑問を持っています。

 

 

 

我々の授業でも、当然新しく学ぶ文法事項等についての説明は行います。これ以上ないというくらい、深くて丁寧な説明をしていると自負しております。しかし、丁寧な説明をすれば生徒はそれをしっかりと理解し、更にはその知識を後々までしっかりと維持できているかというと、それは全く別問題です。

 

 

 

我々は、生徒たちが我々の説明をわかったような顔をして聞いていても、実は意外にわかっていない、意外にできない、ということを知っています。なぜなら、常にマンツーマンで質問をし続けているからです。すると、「はいわかります。」と答えた直後に角度を変えて質問をしてみると、答えられない、あるいは間違ってしまう、ということは決して珍しいことではありません。

 

 

我々は、生徒たちが「わからないことをきっちりと自分の頭で理解すること」、「生徒たちが今できないことをきっちりと自力でできるようになること」、それらを日々の自分の任務としています。そのためには、ただ説明するだけでは駄目なのです。

 

 

※生徒自身にいろいろな角度から質問を投げかけ、生徒自身の力で答えを導き出させなければ、本当に生徒の血(知)となり、肉となることはないのです。また、マンツーマンですから、他の人が当てられている時は自分は休憩、というわけにはいきません。常に全ての質問に対して自分が考え、自分が答えを出していかなければならないのです。つまりお互いに非常に集中力を要し、お互いに非常に疲れる授業なのです。一瞬たりともボーっとする暇はないのです(笑)

 

 

このやり方こそが、生徒たちの思考を真に鍛える方法であると私たちは信じて疑いません。

 

※(どんどんと質問を浴びせながら生徒たちを正答=正しい解釈へとたどり着かせることは、単に丁寧で詳しい説明をして教え込むことよりはるかにエネルギーや力量を要するものなのです!)

 

 

 

 

疑問2 だま~って講義を聞いたりだま~って勉強していて、本当の英語力が身につくのか?

 

 

つかないと断言します。英語は言葉です。声に出して英文を読む、これが英語(言語)学習の核となるものです。

 

(今のお父様お母様の世代はまさに、集団式予備校で英語を学んで大学受験を突破した世代でしょうから、ご自分のことを思い起こせば、自ずと答えは同じになるはずです。)

 

 

 

集団式予備校から我々のところにやってこられる生徒さん(だけでなく初めて我々のところにやってこられる生徒さん)の殆ど全員に共通している問題点は、読むのが下手ということです。まず発音がなっていないことが多いです。waterとかlittleなどを「ワラ~」とか「リル~」とは(不思議と)言えるんだけれど(笑)、RとLの発音の区別は全くできていないことが多く、むしろ滑稽です。RとLの発音の区別もせずに英語を読んだり話して、それは本当に「英語」なんでしょうか?(むしろ、他の音は出せなくてもこれだけはしっかりと出せるようにすべきものなんですが…)

 

 

また、複数名詞につけるsを読み飛ばしたり、現在形の文なのに過去形に訳したりと、言葉や文章の末尾に行くにつれて意識が薄れることが多いです。そんなところどうでもいいと思っているのでしょう。しかし、英語において、名詞の数を常に意識するというのは英語文化の大きな特徴ですし、現在形を過去形に訳してしまう人は、あらゆる場面で適当に訳すことが多いと容易に想像がつきます。細部にまで意識を働かせられないようでは、いつまでたっても英語ができる、という境地には達せないでしょう。

 

 

 

しかしこういったことは、マンツーマンで生徒一人一人の「声」を聴いてくれる人がいなければ決して表面化しないことです。

 

 

 

一番大きな問題としては、英語長文の読解でしょう。

 

 

集団式では、家で予習として英語長文の和訳をノートに書く、というような作業が必要になるようです。(やっているかどうかは別として。)授業では講師の方がひたすら説明をし、生徒たちは、自分の訳や解釈と照らし合わせて、訳文を修正したり、ノートをとったり、というところでしょうか。

 

自宅で長文の和訳をノートに書いている時はほぼ黙ってやっているでしょうし、講義中もひたすら説明を聞くだけですから、ほぼ黙っているということになりますでしょうか。

 

 

我々の授業では、その日やる英語長文の全てについて、生徒たちに読ませますし、必要な部分は全て生徒たちに口頭で訳させます。(ノートに訳させるなんて時間の無駄!)その際に、ポイントとなる単語の意味や文法の質問、、文の構造についての質問、解釈についての質問と、様々な質問を投げかけながら、生徒の理解を深めていきます。また、日本語の言葉遣いや表現についても、おかしなところは訂正していきます。(別の機会に書こうと思いますが、予備校に通って偏差値はそれなりにとれていても、まともな日本語訳が出来ない人、多いですよ!)

 

 

 

つまり、場合によっては講師よりも生徒の方が声を出している割合が多い、そういった授業を展開しています。全て、「生徒自らが自らの力で本当にできるようになる」ための、基本的な方法論だと確信しています。また、英語のみならず日本語能力をも鍛え上げていくことができます。(特に国立大学では英語においても、日本語能力が問われます。)

 

 

 

疑問3 やる気のある仲間同士で競争しながら、切磋琢磨しあうのが勉強って本当?

 

 

ある面では当たっている部分もあると思います。例えば、数学などは個別指導塾の1:1でやることにそれほど意味がないという意見があります。大勢の中で揉まれながら、デキル人に刺激されて自分もやる気が出る、という理屈のようです(笑)。

 

 

まあ、集団式で問題演習などをやれば、人より早く問題を解こうという意識が働いて、ある種の集中力だとか解答作成能力が高まるということはあると思います。また、「自分が解けない問題をヤツは解けた。悔しい。」という気持ちを原動力にして、やる気が起こるということもあるのでしょう。

 

 

一方で、個別でどんどん数学の深いところまで掘り下げて、指導してくれるような先生がいらっしゃるのであれば、その先生から刺激をもらえますから、単に計算が早いだとか、難しい問題が解けた、といった喜び以上の深いものを得られることもあり得ます。ただ、それだけの熱意ある先生と出会えるかどうかはわかりません。

 

 

いずれにせ、デキル人に刺激されて、というのは、自らの内面から湧き上がる知的好奇心だとか探究心=つまりは内発的動機づけから勉強をしているわけではないということでもあります。人との競争心を勉強へのエネルギー源としているだけですから、一流人とは言い難く、ちょっとお粗末ですね。

 

 

 

英語の場合はどうでしょうか?英語の場合は、デキル人に刺激されて、何をするのでしょうか?英語というのは、言葉の学習ですから、デキル人に刺激されることはあっても、結局は自分でコツコツとやるべきことをこなしていかなければ、デキルようにはなりません。(数学だって、結局は一人でコツコツとやるべきことをやらなければ、やはり力はつきませんからね。。)

 

 

また、人と差をつけたいのであれば、人と同じ授業を受けたり、人と同じことをやっていても、普通の人は、差がつかないのが現状です。

 

 

何度も書きますが、勉強とは結局のところ、自分の頭で考えて自分で答えを出すことが大事なことであり、特に英語を学習する場面においては、可能な限り声に出して英文を読みながら学習を進めるのが、本物の英語力を身につけるために絶対必要条件です。そういったことを可能にするのが、力のあるプロ講師による1:1の個別学習であると断言できると思います。

 

 

 

ただ、どうしても人との競争がないとやる気が出ないという人(競争があれば本当にやる気が出るのかどうかは別として…)、大学入試さえ突破できればそれでいい、本物の英語力だとか使える英語力なんて興味ない、英語で何か読み物を読んでみたいなんて思わない、等にあてはまる人は、集団式予備校が合っているでしょう。

 

 

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2017/02/14

日本語読解力こそが全ての基盤

再三書いてきていることですが、何度でも書く必要があると思っていますので、いろいろな角度から同じことを訴えていきましょう。

 

 

我々は生徒の皆さんに英語を教えていて、時々不思議な感覚に襲われます。私たちは一体何を教えているのだろうか?と再確認したくなるような感覚。英語を教えているはずなのに、いつの間にか日本語の使い方だとか、一般常識的なことを教えていることがよくあるのです。

 

 

これが何を意味しているのか、といいますと、やはり、今の若者の言語(日本語)能力や教養力が総じて低いということではないでしょうか。本人の母語能力以上に外国語(英語)能力が高まるということはあり得ませんから、自分の英語能力は日本語能力に比例するのだとお考えください。

 

 

 

昨今は、お子さんが小さいうちから英語英語と、英語を熱心に習わせる親御さんが相当数いるようですが、それはお子さんの首を親自らが絞めているようなものだと、私たちは考えています。英語ができれば世界を理解できるわけではありません。英語ができるだけでは何者にもなれません。(なる必要もないわけですが。)また、母語能力以上の外国語能力が獲得できるはずもないのですから、英語ばかり熱心に勉強させたからといって、それが他を圧倒するような特別な力となり得る可能性は限りなく小さいのです。

 

 

 

むしろ、根幹となる部分をしっかりと耕されていたお子さんは、英語しかできない薄っぺらい学力など、時期が来ればあっという間に追い抜いてしまいます。子どものうちは「英語など勉強する暇があったら、本を読みなさい」ということです。(この「本」という文字が実は曲者ですが・・・つまり子供用ラノベではちょっとどうかなあ…。また書きましょう。)

 

 

我々が母語とする日本語能力というものがいかように大切であるか。是非とも以下の文章をまずはお読みいただき、一人でも多くの親御さんがお子さんに真の知性の萌芽を育んでくださいますことを、切に願います。

 

 

 

2017年、2月6日付東京新聞夕刊の記事より、京都大学名誉教授佐伯啓思氏の文章です。

 

 

佐伯 読解力 いらないか

 

 

 

 

わたしの判断で、大事な部分を抜粋してご紹介します。(前半部分割愛。できれば本文をお読みいただきたい。)

 

 

              ネットは簡便

 

「言葉」というものに対してもつ関心や意味が近年、大きく変わってきていることは事実であろう。確かに、ITの進展とともに、チャットやツイッターや無料通信アプリLINE(ライン)で交わされる言葉は、読解力や表現力どころか、好き、嫌い、いいね、けしからんね、といったたぐいのあまりに端的であけすけな単語の組み合わせ、といった傾向に流れる。また、いかなる情報でも、ネットによって簡便に入手できるため、ほとんど読解力などいらなくなっている。

 

 情報化の進展それ自体に是も非もないにしても、結果として、多少なりとも複雑で含みをもった長文の読み書きが回避されるようになるとすれば、そこには大いに問題があろう。読解力とは、言葉を通して他人の心を理解し解釈する力だからである。

 

 だからまた、それは表現力ともかかわるし、さらにいえば、社会的なコミュニケーションの力ともかかわる。なぜなら表現力とは、どのように言えば他人が理解してくれるか、という解釈を前提にするからであり、社会性の力は、他人の言いたいことを理解しおのれの言いたいことを伝える力そのものだからだ。読解力が大事なのは、「国語」の点数をあげるからではなく、それが人間の社会性の基礎であり、文化の基礎だからである。

 

 ということは、読解力の低下は、社会性の能力、つまりコミュニケーション能力の低下を意味するだろうし、さらにいえば、文化の質の変容を示しているだろう。

 

(中略)

 

                「生」を豊かに

 

 さらにいえば、政治の質も、政治家の質も、もとをただせば、読解力や表現力に基礎をおいている。(中略)まずは大事な一冊の本を見つけ、一人の大事な人との会話を楽しみ(時には苦しみ)、そこからおのれを見いだすというしごく当然の習慣を身につける方が、はるかに「生」を豊かにすることは間違いないであろう。(抜粋終わり)

 

 

 

 

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